~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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改定刊行が待たれる、立松和平『ニ荒』

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立松和平の本は、需要如何にかかわらず、うちの店ではけっこう長く引っ張るのですが、本書は1冊だけの仕入れでしばらくおいていたものの、とうとう売れず私が買っただけの本です。
最近の本にしては珍しく、箱入りであったことから、立松和平と新潮社の力の入れようが推察され、私の「テーマ館」とも多くのリンクする内容が想像されたので買わないわけにはいきませんでした。

でも、部屋のなかの次に読む本の山に積まれたまま、長い間に読んではいませんでした。
時々、箱から抜いたまま積んであるその本を横目で見ながら、気にはしていたところ、今回の盗作絶版のニュースが入ってきました。
やった!買っておいて良かった。
改訂版が改めて出るとはいうものの、これは良い買い物をしたものだと、ちょっと満足。

もともと、立松和平の著作で自然や仏教関係以外を主題としたものとなると、天明の大噴火を主題にした『浅間』や足尾銅山をテーマにした『恩寵の谷』などとともに、日光、二荒山、勝道上人などについては、いつかは必ず書かずにはいられなかったテーマであったと思われます。

それだけに、立松和平の生涯の著作のなかでも重要な1冊になることは間違いないのではないかと思われる作品です。



今回の盗作騒動は、立松和平の作家としての力や資質を問う論評もありますが、それらに対して私は、ちょっと問題の質が違うのではないかと感じます。

もともとこうした歴史や地域の風土を素材とした作品の場合は、その元となる資料が一次資料であるか二次資料であるかの判別が難しいばかりでなく、史実そのものですら、立証性に乏しいものを扱うことがとても多いということを前提に考えなければならないと思います。

それだけに、今回の場合は、問題になった福田和美『日光鱒釣紳士物語』(山と渓谷社)を参考文献として取り上げるだけでなく、直接著者への確認まで求められるべきであったというのが筋であったのでしょうが、参考にした文献すべてをそうした確認作業までするというのも、並の心構えではできるものでもないだろうと。

引用しているものが、史実であるのか、作者の創作によるものなのかなどという問いが、もし私が扱っているテーマ館のなかの「マタギに学ぶ自然生活」や「ニホンオオカミ復活プロジェクト」「タヌキ、人間的な、あまりに人間的な」などの文章のなかでで問われたら、私はもうお手上げです。

私の例などは問題外としても、立松和平のような有名人でなければ、こうした問題は絶えずどこかの誰かから「あの文章はオレの~」などというつぶやきとして頻繁に起きているのだろうと思われます。

だから仕方がない、などと言いたいのではなく、私はもっとその大前提として、著作権の主張の前に、本来こうした文化情報というものは、まず人類の共通財産であるという前提の下に成り立っているものであり、その上で、その共通の財産を利用する権利として該当者に仁義をきるというプロセスが基本であるべきことだと思うのです。

あまりに著作権云々や権利を主張するのは、いつもどこかおかしいのではと感じてしまいます。

このことは、「情報の値段は本来無料(タダ)」という挑発的なタイトルで何度か私は言及しているのでここでは繰り返しませんが、ひとつの作品が商品であることによってしか評価されないしくみから、そろそろ脱却するべき時に来ているのではないかと思うのです。

商品であることよりも、文化財としての価値を表現する方法があるとしたならば、いつももう少し別の解決方法が見えてくるのではないだろうか。

今回は詳しく触れませんが、商品としての価値も生産者よりも消費者がより多く決定権をもつ時代になってきたことにより、その先に、本来の「価値」とは主観的なものであり、だからこそ文化的なものほど読者や利用者によって評価は異なることが認められる時代であるとともに、そうした多用な価値判断を流通のしくみに取り入れることが、現実に可能な時代になってきていることをもう少し見据えなければならないのではないでしょうか。

そうしたことを前提に考えるならば、今回の騒ぎで、まず第一にされるべきことは、
より多くの人にその引用の是非が問われた福田和美『日光鱒釣紳士物語』(山と渓谷社)が、多くの人に読まれる環境におかれるべきことだと思います。

現在、入手でききない本書のようなものこそ、こうした機会にはネット上で、10円とか100円とかの手数料で閲覧できるような仕組みがあるべきだ。

そうした環境が保証されてこそ、それぞれの著者にとっても有意義な論評、評価がされるようになるのではないかと思います。


それで、ようやく読み終えた『二荒』ですが、二荒山(男体山)とそれを切り開いた勝山上人を尊敬する私たち栃木、群馬の者にとっては、欠かすことのできない大事な本であることを感じました。

構成は、勝道上人の長い修行を経て二荒山を踏破するまでの経緯と、まだ観光地として整備される前の時代である戦前、戦後を中禅寺湖畔の自然のなかで暮らす若者の様々な体験と成長の姿を軸にしています。

冒頭、若い主人公は地元なれしたものの見栄を張って、ほとんどの人が下山してくる遅い時間に二荒山に登りだすが、下山途中体調を壊し、真っ暗闇のなかを体を引きずりながら降りるはめになる。
月明かりもない闇のなかで、わずかな足元だけを照らす明かりさえあればどんなに楽だろうかと思いながら少年は不安なまま歩き続ける。
そのとき、遥か先にほのかな明かりが見えたかと思ったら、年配の女性が懐中電灯を手にうずくまっている。
やっとの思いで歩いていた自分であったが、その女性を助けて歩くことになる。
自分が人を助けているのに、その女性の持っていた懐中電灯にどれだけ救われたか、いや肩を貸しているこの女性に自分自身がどれだけ救われたことか・・・
といった冒頭の話が、なんとなく全体の基調となって胸にのこりながら話が進む。

観光地として栄える前の中禅寺湖周辺で生計をたてていた人々の様子が、活き活きと描かれているのが本書で楽しめます。

改訂版が近く出ることと思います。
特別に立松和平のファンでなくとも、修験道山岳信仰に興味ある方、戦前、戦後の暮らしや釣りなどに興味ある方にはおすすめですよ。