甲波宿禰(かわすくね)神社の謎
渋川市には甲波宿禰という名の神社が4つあります。
わたしが最初に知ったのは、行幸田にある甲波宿禰神社でした。
ところが、この行幸田の甲波宿禰神社は、地元以外にはあまり知られておらず、
通常は、川島、祖母島、箱島にある三つの甲波宿禰神社の方だけがものの本では紹介されていることも多いようです。
はじめは全国にある甲波宿禰神社の一部が渋川にたまたままとまっているのかと思いましたが、
甲波宿禰神社というのはここにしかないらしい。
この三つの甲波宿禰神社が、いづれも島のつく地名のところにほぼ等間隔で並んでいることから、
なんらかの川の信仰にまつわる神社であるとされています。
なるほどと思いつつも、川の信仰にしては妙に地味な川沿いにあるような気もする。
利根川などの大きな川をあえて避けて、どうしてこの場所で川の信仰が三か所もまとまっているのだろうか。
吾妻川流域にしても、この場所は上流とも下流ともつかない中途半端な場所で、
天明の浅間山噴火の災害以外に、それほど氾濫などの災害が多い地域とも思えません。
たしかに昔は生活上、水の果たす役割はとても大きいことが想像つきます。
でも、なんとなく甲波宿禰の甲波がほんとうに「川」の当て字と思って良いものだろうか。
「宿禰」という言葉のニュアンスからも、どうも納得しがたい気がしてなりません。
よく見れば、吾妻川を隔てた向かいの小野子山の綾線上には雨乞山(931m)があります。
日常的とまでは言わずとも定期的な行事として、昭和初期まで雨乞い行事が行われていた記録もある。
とすると、川を挟んで雨乞山とこの三つの甲波宿禰神社の位置関係も三角形で結ぶ位置にあるのではないかと思い
地図に線を引いてみると、たしかにほぼ三角形で結ばれる。
少し形が悪いと思ったら、川島の甲波宿禰神社は、もっと川沿いの天明の浅間石のある場所にあったものを移築した経緯のあることを思い出しました。
現在の場所から浅間石のある場所あたりに移して三角形を引きなおしてみると、なるほど三つの甲波宿禰神社がほぼ一直線上にならび、
雨乞山と適度な三角形に投射する位置関係が確認できた。
三つの甲波宿禰神社と雨乞山とのこうした関係を指摘した資料はまだ見ていません。
川の信仰というものが、雨乞いにつながるものなのか、氾濫洪水などの被害にまつわるものなのかはなんとも推測の域を出ない。
ここまでわかっただけでも面白いのだけれど、なるほど、そういうことだったのか、と納得してしまうようでは尻切れトンボ。
疑問はまだ二つ残っています。
三つの甲波宿禰神社とはいいながらも、真ん中の祖母島の甲波宿禰神社は、武内神社とも呼ばれる武内宿禰を祀る神社。
いったいどうしてこの場所に武内宿禰が突然あらわれるのだろうか。
それとこの等間隔の甲波宿禰神社とは切り離された行幸田の甲波宿禰神社との関係、
分社された経緯は、甲波宿禰神社の本質を探るヒントにはならないだろうか。
つづきは次回に書きます。
わたしが最初に知ったのは、行幸田にある甲波宿禰神社でした。
ところが、この行幸田の甲波宿禰神社は、地元以外にはあまり知られておらず、
通常は、川島、祖母島、箱島にある三つの甲波宿禰神社の方だけがものの本では紹介されていることも多いようです。
はじめは全国にある甲波宿禰神社の一部が渋川にたまたままとまっているのかと思いましたが、
甲波宿禰神社というのはここにしかないらしい。
この三つの甲波宿禰神社が、いづれも島のつく地名のところにほぼ等間隔で並んでいることから、
なんらかの川の信仰にまつわる神社であるとされています。
なるほどと思いつつも、川の信仰にしては妙に地味な川沿いにあるような気もする。
利根川などの大きな川をあえて避けて、どうしてこの場所で川の信仰が三か所もまとまっているのだろうか。
吾妻川流域にしても、この場所は上流とも下流ともつかない中途半端な場所で、
天明の浅間山噴火の災害以外に、それほど氾濫などの災害が多い地域とも思えません。
たしかに昔は生活上、水の果たす役割はとても大きいことが想像つきます。
でも、なんとなく甲波宿禰の甲波がほんとうに「川」の当て字と思って良いものだろうか。
「宿禰」という言葉のニュアンスからも、どうも納得しがたい気がしてなりません。
よく見れば、吾妻川を隔てた向かいの小野子山の綾線上には雨乞山(931m)があります。
日常的とまでは言わずとも定期的な行事として、昭和初期まで雨乞い行事が行われていた記録もある。
とすると、川を挟んで雨乞山とこの三つの甲波宿禰神社の位置関係も三角形で結ぶ位置にあるのではないかと思い
地図に線を引いてみると、たしかにほぼ三角形で結ばれる。
少し形が悪いと思ったら、川島の甲波宿禰神社は、もっと川沿いの天明の浅間石のある場所にあったものを移築した経緯のあることを思い出しました。
現在の場所から浅間石のある場所あたりに移して三角形を引きなおしてみると、なるほど三つの甲波宿禰神社がほぼ一直線上にならび、
雨乞山と適度な三角形に投射する位置関係が確認できた。
三つの甲波宿禰神社と雨乞山とのこうした関係を指摘した資料はまだ見ていません。
川の信仰というものが、雨乞いにつながるものなのか、氾濫洪水などの被害にまつわるものなのかはなんとも推測の域を出ない。
ここまでわかっただけでも面白いのだけれど、なるほど、そういうことだったのか、と納得してしまうようでは尻切れトンボ。
疑問はまだ二つ残っています。
三つの甲波宿禰神社とはいいながらも、真ん中の祖母島の甲波宿禰神社は、武内神社とも呼ばれる武内宿禰を祀る神社。
いったいどうしてこの場所に武内宿禰が突然あらわれるのだろうか。
それとこの等間隔の甲波宿禰神社とは切り離された行幸田の甲波宿禰神社との関係、
分社された経緯は、甲波宿禰神社の本質を探るヒントにはならないだろうか。
つづきは次回に書きます。