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武田徹『原発報道とメディア』講談社現代新書

最近、原発関係で高木仁三郎以外に私が読む機会の多い人としてジャーナリスト武田徹があげられます。

武田徹氏は5月末、新聞社の取材で福島県石川町を訪ねています。
東京新聞の7月17日(日)に石川町のことを取材した同様の記事が出ていましたが、こちらの取材の署名は秦淳哉となっていました。

私は小学校2年から中学2年までの間、福島県喜多方市に住んでいたのですが、石川町と聞いて、すぐにはその場所がわかりませんでした。
文章から郡山の南、いわき市に向う方向、いやもう少し南といった印象ですが、磐越東線をたどったのでは見つからない。郡山から水戸へ向かう水郡線をたどることでみつけることが出来ました。

この石川町。実は日本の原爆開発の重要拠点であったのです。
日本の原爆開発と聞いただけで、えっと感じる人も多いのではないかと思われます。私も知りませんでした。


1928年にオットー・ハーンがウランの核分裂実験に成功。
そのハーンのかつての研究仲間でナチスの迫害を避け、デンマークに亡命していた物理学者りーゼ・マイトナーはその実験結果を物理学的に検証し、二つに分裂した原子核の質量を合計すると元のウランよりも軽くなり、減った質量分が強力なエネルギーとして放出されることを計算で示した。

この研究がたちまち世界に広がり、第二次大戦がはじまろうとしていたときに核爆弾開発競争が一斉にはじまった。
こうした世界の流れに対して後に被爆国となる日本も決して例外ではありませんでした。

理化学研究所仁科芳雄博士が陸軍航空技術研究所に「ウラン爆弾」の研究の進言したと言われるが、1943年1月に仁科を中心に研究がはじめられた。相前後して海軍も京都帝大理学部の荒勝文策に核爆弾の開発を依頼している。

(以下、引用)
この新型爆弾お原料になるウランの入手先として白刃の矢が立ったのが、福島県石川だった。旧制私立石川中学校(現在の学法石川高校)の創立者・森嘉種が石川で採掘される鉱物について明治30年代に紹介し、ペグマタイト(巨晶花崗岩)の産地として注目されるようになる。以後、多くの研究者、学者が石川で産出される多彩な鉱物についての研究を重ね、その中には放射性の鉱石が混じっていることが早くから知られていた。44年12月に日本陸軍は石川町でのウラン採掘を決定。45年4月から石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた。   (以上、武田徹 「原発報道が見落としてきたもの」講談社広報誌より)

(石川町の原爆開発や勤労動員の実態については、石川町史編纂専門委員らが地道な調査を重ねています。)

原爆の製造には何段階もの行程が必要。
ウラン鉱石を精錬し、不純物を取り除いたイエローケーキと呼ばれる粉末にする。これを六フッ化ウランに転換し、ここからウラン235を分離する。さらにウラン濃縮を高め原爆に使用するウランができる。
ウラン抽出には最先端の技術が必要で、日本の研究はまだ基礎研究の段階。
原爆の完成にはほど遠いものであった。

この石川町の他に55年に岡山、鳥取県境の人形峠でウラン鉱山が発見され、本格的な採掘がはじまったが、これも採算割れで中止になる。
こちらの鉱山採掘跡地は、今も立入禁止区域になっており、その影響が問題となっている。

このあたりの問題については、武田徹『わたしたちはこうして「原発大国」を選んだ』中公新書ラクレ に詳しい論及があります。
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日本でのウラン採掘は、これらすべてあわせても原発一基を1年稼働させるほどにもならない量であるらしいが、問題はそれではない。

かつて唯一の被爆国として世界平和を訴えていた日本にも、未熟ながらも原爆開発の歴史があったこと。
こうした原爆開発の拠点として福島があったこと。

こうした事実を知ると、今の原子力発電の事故というものをとらえる文脈が大きく変わってくるのではないかということです。

そもそも、原子力の平和利用といっても「核」という「とてつもなく危険」なものの本質は変わらない。
野坂昭如が言っていたように、原子力の平和利用と軍事利用に差があるわけではなく、平時の「核」と戦時の「核」の違いにすぎない。

実際に多くの人々が「核」の平和利用によって人類の明るい未来が切り開かれるかのように思って努力を重ねてきたこと、すべてを否定する気はありません。
しかし、また一方で、「核」という本質からは、それを平和のために区別しようとする努力とは関係なく「軍事」と不可分のものとして存在してきたこと、さらにそうした意志をもって原子力開発の歴史がつくられてきたということを、今あらためて確認する必要があると思うのです。

多くのマスコミが、東北の震災・津波被害の取材にくらべて、こと原発問題となると、政府・東電の広報から踏み込んだ取材がなかなかされないトーンダウンした論調が目立つのは、必ずしも単にスポンサーがらみのがんじがらめの構造によるものだけではない。

武田徹はそのことを、「戦前と戦後の日本を断絶させ、両者を異質な社会だとみようとする傾向に安易に乗じて、歴史を真剣に相手取らなかった結果ではなかったのか―――」  と指摘する。

このたび講談社現代新書として出された武田徹原発報道とメディア』は、こうしたことを鋭く指摘した興味深い本です。(7月17日現在、品切れ中)