第三の心臓、「足」
第三の心臓としての「足」
わたしは足フェチでもあります。
我が心の師匠(摺本好作さん)との間では、人間にとって「手」果たす役割と「足」の果たす役割、それぞれの意義の大きさについてしばしば競い合っています。
前回、心臓のはたらきをサポートしている大事な器官としての「血管」の役割について書きましたが、全身に血液を循環させるはたらきとしてそれ以上に「足」の果たす役割もとても大きい。話の流れで、足が第三の心臓となってしまいましたが、一般的には足のほうが「第二の心臓」と呼ばれています。
全身のツボの3分の1程度は足にあり、しかもその多くは足の裏に集中しています。
これは、足が全身の血液循環のちょうど折り返し点であるだけでなく、人の「立つ」、「歩く」という行為と密接に関係していることにもよる。
歩くことによって、足の裏は交互に圧迫され、からだの一番遠い部分から血液を全身に送るポンプの役割はたすことができるのである。これは足の裏の圧迫によるものだけではなく、足を交互に動かすことによっても同様のポンプ機能を果たすことになっている。
さらに、足の交互運動は内臓への刺激にもなり、手の交互運動とともに前回触れた内臓下垂の予防効果もある。
よく、せっかくの休日に身体を休めているつもりが、家でじっとしていると、なぜか頭痛がしてきたり、体が固くなって疲れてしまうことがあるのは、普段しているこの足の交互運動がされないことで血流がとまってしまうことによるもの。
この足の血液循環に果たす役割が見えると、ジョキング以上に歩くことがからだに良いといわれる理由がよくわかる。
四足動物以上に、人間が直立歩行するようになったことで、足の果たす役割は、歩くという行為だけでなく、からだの健康を維持するための大事な部分としてひときわ重要になったといえる。
その意味で、まず下半身への血行をとめる原因になる内臓下垂をふせぐ運動、足の付け根と膝の裏をよくほぐしておくことをして、足裏マッサージを十分することが重要。
だいぶ前に「人間は考える足である」という自説を書いたことがありますが、
足とは、人の意思のあらわれであり、
真に考えるという行為は、
足を動かす、
自分の立ち位置を変える(原点移動)
とともなってこそ
「考える」というにふさわしい行為に至れるのだと思う。
意思の強さ、
それは強い心臓と
足を動かす行動力によって支えられている。
さらに、ひとは物事を考えるとき、
部屋のなかをうろうろ歩き回る、
貧乏ゆすりをする、などの動作に見られるように
足を動かすことで脳の不足した酸素を補うべく血液を送り込む作用を及ぼすということも足の大事なはたらき。
こうした様々な意味で、
足は第三(第二?)の心臓といわれるに十分な役割を果たしているがわかる。
では最初に書いた「第四の心臓」とはなにか?
次回に書こう。
わたしは足フェチでもあります。
我が心の師匠(摺本好作さん)との間では、人間にとって「手」果たす役割と「足」の果たす役割、それぞれの意義の大きさについてしばしば競い合っています。
前回、心臓のはたらきをサポートしている大事な器官としての「血管」の役割について書きましたが、全身に血液を循環させるはたらきとしてそれ以上に「足」の果たす役割もとても大きい。話の流れで、足が第三の心臓となってしまいましたが、一般的には足のほうが「第二の心臓」と呼ばれています。
全身のツボの3分の1程度は足にあり、しかもその多くは足の裏に集中しています。
これは、足が全身の血液循環のちょうど折り返し点であるだけでなく、人の「立つ」、「歩く」という行為と密接に関係していることにもよる。
歩くことによって、足の裏は交互に圧迫され、からだの一番遠い部分から血液を全身に送るポンプの役割はたすことができるのである。これは足の裏の圧迫によるものだけではなく、足を交互に動かすことによっても同様のポンプ機能を果たすことになっている。
さらに、足の交互運動は内臓への刺激にもなり、手の交互運動とともに前回触れた内臓下垂の予防効果もある。
よく、せっかくの休日に身体を休めているつもりが、家でじっとしていると、なぜか頭痛がしてきたり、体が固くなって疲れてしまうことがあるのは、普段しているこの足の交互運動がされないことで血流がとまってしまうことによるもの。
この足の血液循環に果たす役割が見えると、ジョキング以上に歩くことがからだに良いといわれる理由がよくわかる。
四足動物以上に、人間が直立歩行するようになったことで、足の果たす役割は、歩くという行為だけでなく、からだの健康を維持するための大事な部分としてひときわ重要になったといえる。
その意味で、まず下半身への血行をとめる原因になる内臓下垂をふせぐ運動、足の付け根と膝の裏をよくほぐしておくことをして、足裏マッサージを十分することが重要。
だいぶ前に「人間は考える足である」という自説を書いたことがありますが、
足とは、人の意思のあらわれであり、
真に考えるという行為は、
足を動かす、
自分の立ち位置を変える(原点移動)
とともなってこそ
「考える」というにふさわしい行為に至れるのだと思う。
意思の強さ、
それは強い心臓と
足を動かす行動力によって支えられている。
さらに、ひとは物事を考えるとき、
部屋のなかをうろうろ歩き回る、
貧乏ゆすりをする、などの動作に見られるように
足を動かすことで脳の不足した酸素を補うべく血液を送り込む作用を及ぼすということも足の大事なはたらき。
こうした様々な意味で、
足は第三(第二?)の心臓といわれるに十分な役割を果たしているがわかる。
では最初に書いた「第四の心臓」とはなにか?
次回に書こう。