クマって哲学的?
うちの自慢の三人の取り扱いの難しいB型のパートのひとりが、最近話題になっている本、現代のイソップ童話ともいわれる、安東きみえ著「頭のうちどころが悪かった熊の話」(理論社)をとても気に入ってました。
それで、この本の話をしていたら、熊という動物は、どうしてこうも他の動物と違って哲学的なんだろう、といった話になった。
考えてみれば確かに「クマのプーさん」がすぐに思い浮かぶ。
思索的な動物で他に思い浮かぶのは、
チンパンジー、オラウータン、ゴリラの類はもちろん人間に近いので当然だけど
鳥でいえば、フクロウやオウム
カメなんかもそんな感じがする?
あとゾウ、
イルカ、シャチ、クジラ(ん?クジラは、あんまり考えていそうなイメージはないか)
こう並べてみると、猿のたぐいを除くと、やはりクマの存在感は大きい。
そういえば、昔、本屋に最もあったキャラクターはゴリラじゃないかと思って、
店の入り口を背にして座らせた大きな縫ぐるみを置きたくていろいろ調べたことがあった。結局、市販のものはないので業者につくってもらうしかなく、見積もりをとったらその金額見て諦めざるをえなかった。
お客さんが店に入ると、後姿のなにかの縫ぐるみが目に入り、前にまわると、ゴリラが頬に手をあてて難しい顔して文庫本を読んでるかたち。
いつか作ってみたい。
(しまった、これは内緒にしておくべき話か。)
で、話はクマのこと。
クマがなんで哲学的なんだろう、というそのパートの問い。
それを考えながらやり取りしていたら、
ちょうどロングセラーで話題になっていた中沢新一の
「カイエ・ソバージュ」の第2巻が『熊から王へ』で
熊を中心とした神話でつながる共同体から、共同体組織が「進化」するにしたがっていかに国家が発生してくるかを解き明かしたていることを思い出した。
そこで中沢新一は、熊の神話の分布が、バイカル湖から日本の東北以北、ベーリング海峡をへてアラスカ、北西海岸インディアンにまでつながる「古モンドロイド」の流れに一致することに注目する。
その神話は細部には様々なバーションンがあるものの、大筋は、
狩りをしている男が、道に迷ったりなんらかのきっかけで、一冬を熊と一緒に穴の中で暮らす。そのとき男は人間ではなく、熊になっていて穴の中の雌熊と交わる。
そして春になると子どもが生まれ、男は穴からでると人間に戻り、自分の村に帰っていく。
やがて男がまた狩りに出かけると、獲物としての熊に出会うが、その出会った熊は自分の妻であったり、子どもであったりする。
男は熊を仕留めることになるが、自分の家族である熊を食べながらも丁重にあつかい最後の骨まで大事に処理をする。
ざっとこんなような話が各地にあるそうなのですが、どれも熊という存在が「人間と獲物」という固定した関係ではなく、対等な、しばしば立場が逆転もする等質の関係としてえがかれており、保護すべき対称としてでなく完全に対等な、共生の関係となっていることに注目しています。
この神話が、つい最近の現代に至るまで、アイヌや北米先住民の間に共通して受け継がれていたと。
原始的な神話世界と考えがちですが、人間と自然界で最も力のある熊が、対等であるとともに同時に神として語りかけてくる。
この対称性が次第に、熊の強い力を人間が征服しようとしだす関係が固定されだしたとき、神の性格も同時に変わる。
ここから先、首長やシャーマンの登場から王の成立へ至る説明は、とても面白いので、是非本書の一読をおすすめします。
マタギの思想の源流をみるような感じもします。
ここで熊は、自然の代表者として存在するとともに、超越した力の象徴としての役割も担っている。と、同時に、人間の理解者としての側面も持っていることで、神の代理たる地位も得ている。
これは、なかなか他の動物では出来ないでしょう。
それで、この本の話をしていたら、熊という動物は、どうしてこうも他の動物と違って哲学的なんだろう、といった話になった。
考えてみれば確かに「クマのプーさん」がすぐに思い浮かぶ。
思索的な動物で他に思い浮かぶのは、
チンパンジー、オラウータン、ゴリラの類はもちろん人間に近いので当然だけど
鳥でいえば、フクロウやオウム
カメなんかもそんな感じがする?
あとゾウ、
イルカ、シャチ、クジラ(ん?クジラは、あんまり考えていそうなイメージはないか)
こう並べてみると、猿のたぐいを除くと、やはりクマの存在感は大きい。
そういえば、昔、本屋に最もあったキャラクターはゴリラじゃないかと思って、
店の入り口を背にして座らせた大きな縫ぐるみを置きたくていろいろ調べたことがあった。結局、市販のものはないので業者につくってもらうしかなく、見積もりをとったらその金額見て諦めざるをえなかった。
お客さんが店に入ると、後姿のなにかの縫ぐるみが目に入り、前にまわると、ゴリラが頬に手をあてて難しい顔して文庫本を読んでるかたち。
いつか作ってみたい。
(しまった、これは内緒にしておくべき話か。)
で、話はクマのこと。
クマがなんで哲学的なんだろう、というそのパートの問い。
それを考えながらやり取りしていたら、
ちょうどロングセラーで話題になっていた中沢新一の
「カイエ・ソバージュ」の第2巻が『熊から王へ』で
熊を中心とした神話でつながる共同体から、共同体組織が「進化」するにしたがっていかに国家が発生してくるかを解き明かしたていることを思い出した。
そこで中沢新一は、熊の神話の分布が、バイカル湖から日本の東北以北、ベーリング海峡をへてアラスカ、北西海岸インディアンにまでつながる「古モンドロイド」の流れに一致することに注目する。
その神話は細部には様々なバーションンがあるものの、大筋は、
狩りをしている男が、道に迷ったりなんらかのきっかけで、一冬を熊と一緒に穴の中で暮らす。そのとき男は人間ではなく、熊になっていて穴の中の雌熊と交わる。
そして春になると子どもが生まれ、男は穴からでると人間に戻り、自分の村に帰っていく。
やがて男がまた狩りに出かけると、獲物としての熊に出会うが、その出会った熊は自分の妻であったり、子どもであったりする。
男は熊を仕留めることになるが、自分の家族である熊を食べながらも丁重にあつかい最後の骨まで大事に処理をする。
ざっとこんなような話が各地にあるそうなのですが、どれも熊という存在が「人間と獲物」という固定した関係ではなく、対等な、しばしば立場が逆転もする等質の関係としてえがかれており、保護すべき対称としてでなく完全に対等な、共生の関係となっていることに注目しています。
この神話が、つい最近の現代に至るまで、アイヌや北米先住民の間に共通して受け継がれていたと。
原始的な神話世界と考えがちですが、人間と自然界で最も力のある熊が、対等であるとともに同時に神として語りかけてくる。
この対称性が次第に、熊の強い力を人間が征服しようとしだす関係が固定されだしたとき、神の性格も同時に変わる。
ここから先、首長やシャーマンの登場から王の成立へ至る説明は、とても面白いので、是非本書の一読をおすすめします。
マタギの思想の源流をみるような感じもします。
ここで熊は、自然の代表者として存在するとともに、超越した力の象徴としての役割も担っている。と、同時に、人間の理解者としての側面も持っていることで、神の代理たる地位も得ている。
これは、なかなか他の動物では出来ないでしょう。