自分と向き合う力
昨日は、映画祭準備作業のひとつ、会場や周辺商店街の飾りつけで使用する竹の切り出し作業に行ってきました。
「きらっしゃい尾瀬の森映画祭」
http://www.maron.gr.jp/ozefilm/
朝から快晴で、気温がどんどん上がりそうな陽気、店の開店前の月夜野人さんに切り出し場所まで案内してもらい、NPOの理事長と尾瀬の寅さんとの三人で竹やぶの中から数十本の竹を切り出し、2mくらいの長さにカットしてトラックに積み込む。
真っ青に澄んだ空と木々の緑がとても気持ちのよい環境でしたが、日差しが強くなると、ひとつの作業を終えるだけでバテてしまう。
時々、わずかな雲が太陽をさえぎっただけで体が急に楽になる。
それでも、日頃の建物の中での重労働とは違って、とても心地よい疲労感でした。
帰りに月夜野の温泉に立ち寄り、すっきりしたところで月夜野人さんの店で遅い昼食をとった。
その後、夜はそのまま月夜野の叔母のところに寄って、本の作成・編集の打ち合わせ。
ところが、着くや否や、なんとなく雲行きの怪しい話。
前回とどけた原稿のラフ組をした試作品を見て、叔母は、もうこれで十分満足した。もうこれ以上手をかけなくても良いとの話をしきりににおわす。
しばらくそのまま話を聞いていると、最近、娘が来たときにこの試作品をちょっと見せたところ、
「これを人に見せるの?」
と言われたそうだ。
たしかに、この内容は、夫の浮気のことや、自分の家出、さらには昔の貧乏で苦労した時代のことなど、普通であれば隠しておきたいような話がたくさん書いてある。
立場によっては、身内ならともかくどんな反応が返ってくるかわからないような人にまでリアルな姿をさらけだすのは、とてもつらいことにもなりかねない。
でも、そこからが、この出版の大事なところ。
途中から叔父も加わったので、この叔母の文章をきちんとしたメッセージとして、限られた身内や知人の間にだけでも伝わるように仕上げることの意義を、今日は腰をすえてここで話しておこうと思った。
まず第一に、通常の自費出版でだされる自伝のようなものは、たいていは自己満足のためにだされたものが多く、その本を通じてひとにどのようなメッセージを伝えたいのか、といったことは特別な目的にしていない場合が多い。
それでいながら、立派な本の装丁に仕上がると、つい興味のない多くの人にも見せたくなってしまう。
これまでは、本を出すとなると、印刷、製本の効率から200部作っても2000部作ってもほとんどコストが変わらず、数百万円の負担を覚悟することが当たり前だったため、その覚悟だけで本の内容にかかわらず、特別な成果として格別な満足感にひたれるものがあったかもしれない。
しかし、最近になってオンデマンド印刷技術の発達やホームページやブログを通じて、文章や写真を公表するだけであれば、だれでも気軽に可能な時代になりました。
それだけに、ここで本のかたちをとって身のまわりの僅かなひとにだけでも伝えたいものを表現するとしたならば、それはどのようなスタイルのものだろうか。
伝えたいもの、
表現したいもの
それを練る作業に時間を労力をもっともっとかけるべきだ。
第二に、伯母の文章の一番大事な特徴なのですが、自分の経験や経歴をまとめるだけの文章や、文学的に美しく飾り立てるだけの文章と違って、「自分と向き合う」ということがきちんと出来ているひとの文章として、多くのひととのその違いを、せめて身のまわりの数人だけにも知ってもらいたいという思いがあります。
ひとは誰でも固有の体験を積み、固有の経験から多くのことを学んで育つものですが、それをきちんと自分の糧にすることのできるひとは、今の時代はとても少ないのではないかと思います。
私は、伯母の文章を通じて、世間のこと、社会を憂えることなどのネタは事欠かない時代ですが、自分ときちんと向き合い、自分のことをこのように語れるひとというのは実に少ないのではないかと改めて感じました。
本来、それこそ、自伝のようなものを残したいと考えたときには大事なポイントなのですが、特に男の場合は、仕事の経歴や肩書きにとらわれ、きちんとここを見つめてステップを踏んでいることが極めて少ないと感じます。
困難や問題に直面したとき、何が正しいかよりも、自分の出来ることを精一杯やり遂げてきているひと、これこそ最も大事なことだと思うのですが、このことを伯母の文章や生き様はしっかりと捉えているのです。
不特定のひとに見せるものとしてではなく、
自分のことを知っている僅かな身内や友人関係にだけ、
自分の生き様を振り返って感じたことを
個別のちょっとしたメッセージを添えて差し上げるような本。
そんなものを、私なりの親戚ならではの思いで、
ビジネスベースでなく、何かしてあげることができたら
とても素晴らしいことではないかと思っているのだけれども、
長い話をして伯父の方は、その辺のことをとてもよく理解してくれた。
本というものは、立派な装丁に仕上がってしまうと、ついそれだけで満足してしまいがちなものですが、そのタイトルやデザイン、装丁などすべてを通じて、どのようなメッセージを届けたいのかという作者の意図こそ、最も時間と労力をかけなければばらならない領域だと思うのですが、通常は、ここに手間をかけすぎると商売にならない。
だからこそ、
これは親戚関係にある伯母と私という私的関係においてこそ、やり遂げる価値がある。
・・・・・てな思いの半分くらいは、昨夜の話で伝えられたかな?
この思いを伝えた勢いで、映画祭のチケット2枚買ってもらっちゃった。
「きらっしゃい尾瀬の森映画祭」
http://www.maron.gr.jp/ozefilm/
朝から快晴で、気温がどんどん上がりそうな陽気、店の開店前の月夜野人さんに切り出し場所まで案内してもらい、NPOの理事長と尾瀬の寅さんとの三人で竹やぶの中から数十本の竹を切り出し、2mくらいの長さにカットしてトラックに積み込む。
真っ青に澄んだ空と木々の緑がとても気持ちのよい環境でしたが、日差しが強くなると、ひとつの作業を終えるだけでバテてしまう。
時々、わずかな雲が太陽をさえぎっただけで体が急に楽になる。
それでも、日頃の建物の中での重労働とは違って、とても心地よい疲労感でした。
帰りに月夜野の温泉に立ち寄り、すっきりしたところで月夜野人さんの店で遅い昼食をとった。
その後、夜はそのまま月夜野の叔母のところに寄って、本の作成・編集の打ち合わせ。
ところが、着くや否や、なんとなく雲行きの怪しい話。
前回とどけた原稿のラフ組をした試作品を見て、叔母は、もうこれで十分満足した。もうこれ以上手をかけなくても良いとの話をしきりににおわす。
しばらくそのまま話を聞いていると、最近、娘が来たときにこの試作品をちょっと見せたところ、
「これを人に見せるの?」
と言われたそうだ。
たしかに、この内容は、夫の浮気のことや、自分の家出、さらには昔の貧乏で苦労した時代のことなど、普通であれば隠しておきたいような話がたくさん書いてある。
立場によっては、身内ならともかくどんな反応が返ってくるかわからないような人にまでリアルな姿をさらけだすのは、とてもつらいことにもなりかねない。
でも、そこからが、この出版の大事なところ。
途中から叔父も加わったので、この叔母の文章をきちんとしたメッセージとして、限られた身内や知人の間にだけでも伝わるように仕上げることの意義を、今日は腰をすえてここで話しておこうと思った。
まず第一に、通常の自費出版でだされる自伝のようなものは、たいていは自己満足のためにだされたものが多く、その本を通じてひとにどのようなメッセージを伝えたいのか、といったことは特別な目的にしていない場合が多い。
それでいながら、立派な本の装丁に仕上がると、つい興味のない多くの人にも見せたくなってしまう。
これまでは、本を出すとなると、印刷、製本の効率から200部作っても2000部作ってもほとんどコストが変わらず、数百万円の負担を覚悟することが当たり前だったため、その覚悟だけで本の内容にかかわらず、特別な成果として格別な満足感にひたれるものがあったかもしれない。
しかし、最近になってオンデマンド印刷技術の発達やホームページやブログを通じて、文章や写真を公表するだけであれば、だれでも気軽に可能な時代になりました。
それだけに、ここで本のかたちをとって身のまわりの僅かなひとにだけでも伝えたいものを表現するとしたならば、それはどのようなスタイルのものだろうか。
伝えたいもの、
表現したいもの
それを練る作業に時間を労力をもっともっとかけるべきだ。
第二に、伯母の文章の一番大事な特徴なのですが、自分の経験や経歴をまとめるだけの文章や、文学的に美しく飾り立てるだけの文章と違って、「自分と向き合う」ということがきちんと出来ているひとの文章として、多くのひととのその違いを、せめて身のまわりの数人だけにも知ってもらいたいという思いがあります。
ひとは誰でも固有の体験を積み、固有の経験から多くのことを学んで育つものですが、それをきちんと自分の糧にすることのできるひとは、今の時代はとても少ないのではないかと思います。
私は、伯母の文章を通じて、世間のこと、社会を憂えることなどのネタは事欠かない時代ですが、自分ときちんと向き合い、自分のことをこのように語れるひとというのは実に少ないのではないかと改めて感じました。
本来、それこそ、自伝のようなものを残したいと考えたときには大事なポイントなのですが、特に男の場合は、仕事の経歴や肩書きにとらわれ、きちんとここを見つめてステップを踏んでいることが極めて少ないと感じます。
困難や問題に直面したとき、何が正しいかよりも、自分の出来ることを精一杯やり遂げてきているひと、これこそ最も大事なことだと思うのですが、このことを伯母の文章や生き様はしっかりと捉えているのです。
不特定のひとに見せるものとしてではなく、
自分のことを知っている僅かな身内や友人関係にだけ、
自分の生き様を振り返って感じたことを
個別のちょっとしたメッセージを添えて差し上げるような本。
そんなものを、私なりの親戚ならではの思いで、
ビジネスベースでなく、何かしてあげることができたら
とても素晴らしいことではないかと思っているのだけれども、
長い話をして伯父の方は、その辺のことをとてもよく理解してくれた。
本というものは、立派な装丁に仕上がってしまうと、ついそれだけで満足してしまいがちなものですが、そのタイトルやデザイン、装丁などすべてを通じて、どのようなメッセージを届けたいのかという作者の意図こそ、最も時間と労力をかけなければばらならない領域だと思うのですが、通常は、ここに手間をかけすぎると商売にならない。
だからこそ、
これは親戚関係にある伯母と私という私的関係においてこそ、やり遂げる価値がある。
・・・・・てな思いの半分くらいは、昨夜の話で伝えられたかな?
この思いを伝えた勢いで、映画祭のチケット2枚買ってもらっちゃった。