~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

祝福されてるのになぜ泣く?

非定住民と賎民の文化のシリーズ、
まだ終わったわけではありません。あと数回は書く予定です。

実は、次に被差別部落や賎民などの間で圧倒的な信仰を集めていた
浄土真宗、極楽浄土の思想のことを書こうと思っているのですが、
その前に、人間の「悲しみ」「涙」のことについてちょっと触れておきたい。

前にもどこかで書きましたが、私は
「プレママ・トレーニング」という不妊で悩む女性のコミュに
なぜか男ひとり入っています。
いろんな経緯があって辞められなくなってしまったのですが、
そのコミュに書こうかどうか迷っていたことがひとつあります。

それは赤ちゃんが生まれるとき
これほど周り中の人々から祝福されて産まれてくるのに、
どうして赤ちゃんは泣いてこの世に産まれてくるのだろうか?
ということです。

もちろん生物学的には、
お母さんのおなかの快適な羊水に浸った環境から
突然、外界に押し出され、急に肺呼吸をさせられることになったのだから
泣くほど大変な変化を強いられていることには違いないのですが、
日頃、プレママトレーニングのコミュで
やっと妊娠した喜び、出産の感動などの話を聞いていると、
こんなにも皆に祝福されているのに、
どうしてお前は泣くんだ!と疑問に思えてならないのです。

1000人にひとり、
いや1万人にひとりくらいでもいい。
オギャーと産まれた瞬間、
キャッ、キャッ、キャッでも
ケ、ケ、ケ、ケでもいい。

笑って産まれてきた赤ちゃんがいてもいいのではないだろうか?
誰かそんな話、知らない?

気持ち悪いかなぁ。
それもすばらしい瞬間になると思うのだけど。。。

そんなことを、ずーと書こうかどうか迷っていたら、
ふと別な考えが浮かんできました。

人間にとって、泣くということ。
涙を流すということ。
悲しむということ。

これらの感情を出すこと
また、そうなってしまうことというのは
悪いことなのだろうか?
ツライから避けたほうが良いことなのだろうか、って。

そう考えると、
人間の泣く、悲しむ、涙を流すということ
どれも、決して悪い行為ではなく
これこそ人間の大事な気持ちなのではないかと感じる。

仏の「慈悲」というとき、
「慈しむ」はわかるが、
どうして「悲しむ」という字が入るのだろうか。

昔、五木寛之がよく、現代の社会があまりに乾いてきてしまって
本来の湿った文化を取り戻すことがいかに大事であるかというようなことを話していました。
合理的文明という仮面のもとに、人びとは必死になって
湿り気を排除して乾いた文化を築き上げてきてしまった。
でも乾いているということは「軽い」。
湿っていることによって「重み」がはじめて生まれる。
そんなようなことを話していました。

そんなことから、もしかしたら赤ちゃんは、
ただの喜び、乾いた歓喜だけではなくて、
この世に湿ったものを含んだ「重み」を持った存在として
祝福されて産まれてきたんじゃないかってな見かたが思い浮かんできました。

浄土真宗親鸞の「地獄は一定、住みかぞかし」なんていう
背理から悟るわけでもなく、
ただ、まさに「慈悲」という言葉につながるような優しさが
泣くということを全面的に受け入れてこそ、
心のなかに生まれてくるのではないかな、てな感じです。

プラス思考でなんでもものごと前向きに考えて
悪い言葉は使わないことは大事ですが、
悲しむこと、泣くことでも
プラス思考と同じように、体に良い免疫作用が生まれるといいます。

赤ちゃんは、
オギャーと生まれた瞬間に、そんな両面を見せてくれているような。。。。

よくわかんないけど。


それにしても誰か
笑って産まれてきたっていう赤ちゃん
ひとりぐらい知りません?

天上天下唯我独尊」なんて言う人より
ずっと現実的でありうると思うんだけどなぁ。。。