~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

人前で泣ける日本人になろう

笑う赤ちゃんの話は、どうもこっちの歩が悪いので
泣くほうの話に変えてもうすこし続けます。

最近わたしは、わが社の極秘エージェントとの連絡接触をはかるために
立て続けに映画館を利用した。
最初はエージェント側の希望で「続・三丁目の夕日
その次はこちらの希望で「母べえ
ちょうど、どちらも昭和の昔の貧しいながらも明るくたくましく生きた家族を描いた作品。

それぞれの映画評を書いたら、また長くなりそうなので
私見のポイントだけ。

この二作品を比べた場合(このふたつを比較する必要はないのですが)
母べえ」の世間の評価がとても高いにもかかわらず、
私は、圧倒的に「三丁目~」の方が、映画作品としての完成度は高いと感じました。
母べえ」は、原作はたぶんすごくいい、
戦争というものの語り方、とらえ方もすごくいい。
吉永小百合も、あの年で若い母親役やってなんの違和感なくやってのけるのもスゴイ!

にもかかわらず、演出とキャスティング、美術などの面で
「三丁目~」にはかなり溝をあけられた感じがします。

欠点というには惜しいのだけど、やっぱり吉永小百合
申し分のない演技をしてくれているにもかかわらず、あの美しい女優からは
戦争中の貧しい中でひたむきに生きる女性のリアリティは、どうも感じられない。
どうしても品が良すぎて美しすぎて・・・。
一流の映画は常にそうした役を、一流の売れっ子女優にさせてきたのだけど、
今回のこればかりは無理があるように感じてしまった。
凛として曲げない姿勢は良いのだけど、もちっとやつれた雰囲気がないと・・・
加えて子役たちも、圧倒的に「三丁目~」の方が上。
山田洋次監督には、製作準備期間を長くもってじっくり作って欲しかった。

てな感想なのですが、このふたつの作品に、
多くの人は、昔の人間の現代には失われている
貧しいなかでも、あるいは差別されたなかでも
明るく元気に生きている人々の逞しさ、美しさのようなものをみんな感じたのではないかと思います。

この誰もが感じる、現代に失われた感情がなんなのだろうか?

それを、この間のシリーズで書いてきた
非定住民や差別された人々、貧しく極貧のなかで生きることを強いられた人々の歴史のなかにも、
同じような、現代人にはない逞しさ、美しさのようなものを感じるのです。

どれをとっても、現代人に比べたら
常に食うもの、着るもの満足に得られないひとたちばかりだ。
加えて、いわれのない差別下にその多くの人びとがおかれていた。

他方、高度経済成長以後に暮らすわたしたちは、たとえ所得が低いといっても
食うもの着るものにまで困っている人はとても少ない。
増して階級的な身分差別のようなものは、法的にはほとんど無くなっている。

そんな時代に、交通戦争をはるかに凌ぐ毎年3万人を超える自殺者が出続けている。
年間3万人といえば、
1年の間に阪神淡路大震災が4回も起きたに等しい。
戦争で死んだ人と比較しても
ベトナム戦争で死んだアメリカ兵は約6万人?
広島原爆直後の急性障害の死者でも14万人。

年間3万人の死者が、一時のことではなくずっと続いていて
これからも減少する気配がないことを考えれば、
最近の主だった戦争どころではない
もっともっと深刻な事態が今、進行しているともいえる。

自殺者の多いのは30代40代であっても、独居老人や病苦の人たちは確実にこれからも増え続け
孤独死」などという言葉まで、日本発の世界語になってしまっている。

この私たちが直面している深刻な問題に簡単に答えを出すことなどできないと思いますが、
これまでの話の流れのなかからひとつだけ
私はここでも「泣く」という人間の感情をとり戻すことが出来たなら
ずいぶん状況は変わるのではないかと思えてならないのです。

人間の「重み」について問われた五木寛之は、
それは濡れたタオルのようなものを想像すればわかると言っていた。
乾いたタオルは使うには気持ちがよいが、軽い。
それに対して、濡れたタオルは「重い」。
湿った世界によってこそ、人間の重みは増すのではないか、というようなことをどっかで書いてます。

その湿る、濡れて泣くという姿も、
今の人は、ただ一人部屋にこもってすすり泣くようなイメージがどうしてもあるのですが、

そうではなくて!

人前で、
「オレ、ニートになっちゃったよー」って涙流してわんわん泣く。
「会社クビになって、住宅ローン払えず、女房に逃げられたよー」ってわんわん泣く。
「医療費が上がって、医者に行けなくてツライよー」ってオイオイ泣く。
そんな姿がみれるようになればということです。

それは決して、テレビや映画を観て泣くなんてものではなくて
自分自身が直面した事態で、人びとが年中オイオイと泣く。

日本人がそんなふうに変わったら
情けない日本人だなーなんて非難も出るかもしれないけど、
なんか政治をあてにせず自分で生きていける人間は
むしろ増えるんじゃないかな。

ひとり部屋で声を殺してすすり泣くのではなく、
人前で声を出して泣けるというのは、
自分が他人に対して身をゆだねられるという信頼があってはじめて出来る行為だと思うのですが、
これはもしかしたら如何なる政治理論や経済的豊かさの追求にも勝る力なんじゃない?

てなことで
今度こそは、仏教の浄土信仰、「他力」の話題に移る予定。