~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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地獄は一定すみかぞかし・私見

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親鸞の教えに対して、巷に誤った理解が広まってしまっていることを嘆いて唯円が書いたといわれる『歎異抄』のなかの有名な言葉のひとつ。

いづれの行もおよびがたき身なれば、
とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。



もともとこの『歎異抄』は、親鸞自身の著作ではないだけに、正しく親鸞の教えを伝えるものであるのかどうか、はたまた作者の唯円という人物すら3人いたとか、実在はしなかったとか、なにかと物議をかもし続けている作品なのですが、その言葉の力がとても強いものがあるので、多くの人に読まれ愛されてきた作品であることに間違いはない。




また本文は40ページほどの短いものでもあるので、私もシステム手帳に岩波のワイド版文庫をはさんだままにしてずと持ち歩いていた(開くことは少ないのですが・・・。)否、そのシステム手帳自体、最近はweb2.0の時代になったおかげで、行った先々のパソコンで必要な業務が継続できるようになったことや、携帯電話で日常のかなりの機能がすまされることで、持ち歩くことはほとんどなくなってしまった。

で、この「地獄は一定すみかぞかし」という言葉も
ここで言う「地獄」は現世のことを指しているのか、文字道理あの世の「地獄」のことを言っているのか、解釈はわかれる。

この『歎異抄』という小さな本が、仏教界だけでなく、おそらく般若心経とともに幅広い人々に読まれてきているだけに、様々な分野の人々からいろいろな読み方がされつづけているといってもよい。

それに対して、私はこの「地獄は一定すみかぞかし」という表現にたいして5年くらい前からだろうか、ずっとひとつのイメージでとらえている。
おそらくそれは、最近の世相のあらわれと、自分自身の仕事のスタイルがほぼ確立してきたことによるように思える。

私にとってのそのイメージとは、ざっと次のようなもの。

私にとって「地獄は一定」というその地獄は、現世のこと。
かといってそれは、必ずしも決して煉獄のような凄惨なイメージではない。
凄惨でないわけでもない普通の私たちが直面している厳しい、時に悲しい現実のことです。

その現実から、多くの人々は浄土に逃れたいあまりなのかどうかはわからないが、芥川の蜘蛛の糸の話のように、糸をたどって上へ、上へと登っていく。
しかし、なぜか私はみんなが登っていくその糸には近づこうと思わない。
それが向上心に欠けるとは思っていない。

自分の仕事は、みんなの目指す浄土に近づくことではなく、
今、自分が立っている足元を固めることが仕事だと思っているからだ。

それは前のT書店に勤めていたころから確信がもてるようになったことですが、いろいろな仕事をさせてもらっているうちに、自分向いている仕事というのが、新しい店をまかされて軌道にのせることよりも、潰れかかった古い店をたて直す仕事のほうが、楽しく、自分自身に向いている仕事だと思うようになったことです。

ゼロから自由に新しい店をつくることの方が面白いのではないかと言われるが、私はどうもそうは感じない。
なかなか信じてもらえないのですが、一番の成功の秘訣とは
「条件が悪いこと」
だと思っている。
立地が悪い、予算がない、建物が古い、レイアウトが悪い、などなど。
決して悪いことを望んでいるわけでもないが、
与えられた条件が具体的に制約されていればいるほど、
必ずそこに「固有の解決方法」が生まれてくるのが面白いからです。

条件に恵まれた環境では、決して固有の解決方法は生まれない。
これは間違いない。
さらに、条件の悪い中で解決した方法のほうが確実に本質に近づいた長続きする結果をもたらすはずである(これは、まだ立証しているとは言いがたい)

私はそんなイメージで、いつも、糸をたどって上に上っていくことよりも、足元に砂を1センチ盛り上げ、それを自分の足で踏み固めて1センチ沈む。また砂を盛り上げては踏み固めて沈む。そんな感じのことをずっとやっている。

最近ではそうして足場固めをやっている間に、次から次へと、糸をたどって上に上ろうとしていた人たちが落っこちてくるのを目の当たりにする。
それは多くの人がその糸が自分の体重を支えられるのかどうか確信がもてないままに、他人のたどったあとの糸にすがって登ろうとした結果の姿に見えてならない。

また自分の足場を固めるということには、もうひとつのイメージがある。
それは、私は中学2年から高校3年までの間、豪雪地帯で知られる新潟県の六日町にいました。そこでは毎年冬になると数メートルの雪が積もり、屋根に積もった雪を降ろすために1階の屋根、2階の屋根に上らなければならない。そのとき、不安定で滑りやすい梯子を使って登るよりは、軒下に積もった雪の山の高いところから屋根に上ったほうがはるかに安全である。
しかし、その高さの雪の山に登るには、足場を確実に踏み固めながら登っていかないと、絶えずズボッと腰まで雪に埋もれてしまう。
何メートルも降り積もった雪を踏み固めるというのは、地面からすべて踏み固めるのではなく、表面の数十センチだけしっかり固めて登っていけば良い。このほうが梯子で登るよりはるかに安全なのである。
しかも降りるときは、後ろ向きで梯子を降りるrより、屋根から柔らかい雪の山へズボッと飛び降りたほうがさらに安心。また楽しい。

梯子という文明の利器を使うよりも、いつもそんな選択を望んできた。
そういいながら、OA機器など、最先端の道具を使うことも大好きだのですが。

同じ足場を固めるという言葉でも、社会生活という面からは、その場その場で生きているような私は、最もその言葉から遠い存在のように見えるかもしれないけど、梯子や蜘蛛の糸をたどって上に行こうという強い衝動には駆られないということだけは間違いない。

それが、最近、あまりにも上から落っこちてくる人の数が増えてきたように見えるので、ますますこのやり方で間違ってはいないのだと思うようになった。さらにマスコミなどで報道されている記事などを見ると、さらにか細い糸にすがって登ろうとしている人が絶えない。

かくして私にとっては
上(浄土)に登る必要を感じない、与えられた今いる困難な場所の方が結論を急ぐことよりも有利な条件が備わっているものだといったような意味で

地獄は一定すみかぞかし


もちろんそれは親鸞のいた絶えず生命の危険にさらされる動乱の時代ではない、のん気な立場だから言ってられることなのかもしれないが、
私の捉え方、そう親鸞の考えから遠いものでもないと思っている。

浄土思想のなかには、あの世でこそ救われるというだけでなく、
「この世でこそ」という意味が、
なんとなくこの「地獄は一定すみかぞかし」のなかには含まれているように思えてならない。