~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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アイデンチチ

親鸞の他力思想にかかわる枝葉の話しをもうひとつ。



外国であなたのアイデンティティーは、と聞かれると
それはカトリックか、プロテスタントか、
ヒンドゥーかブッティストか、という意味ですが、
日本人にそうした感覚はあまりない。

日本人が連想するのはIDカードのアイデンティティーで
ソニーの社員です、とか
渋川市役所の職員ですとか、
よく解釈しても、日本人であるとかをイメージしてしまう。

実は、この違いが今とても問われているのを私は感じます。


アメリカの法廷や議会での宣誓シーンで
「あなたは真実のみを語ることを誓いますか」
との問いに
「イエス、真実のみを語ります」
といいますが
「誓います」のあとには
「イン・ゴッド」がついています。
つまり、神に誓っているのです。
誰に誓っているのか、何にたいして誓っているのかを明言している。

それに対して日本の国会や法廷での宣誓は
いったい何に対して誓っているのだろうか?
まさか、良心に基づいて?
証人喚問に呼び出されるような人間の良心なんか
はじめからあてになるものではない。

では、欧米並みに日本も
「神、仏に誓って」と言えば良いのだろうか?
日本人の感覚からして、いかに信心深い信者であっても
それはなんか違うような気がします。

それは、唯一絶対の創造者たる神に誓うのと
東洋の神々に誓うのとは、そもそも神の性格が違うからだと思います。

ここに日本人に求められるアイデンティティーの難しさを感じる。



この日記タイトルを「アイデンチチ」としたのはそこの問題です。

今、世界で一般に通用するアイデンティティーは
天地創造唯一神に誓う、それぞれの「イン・ゴッド」であり、
それは文字通り「天地創造の父」への誓いだといえる。

それに対してわれわれ東洋の人々が崇める神は
天地創造の神・父ではなく
万物創造のみなもとである「大地」であったり
「地球」であったり
「宇宙」であったりする
生命の「母」です。

この母に対する「信頼」のもとにわたしたちはいるのであり、
それは、なんとなく「誓う」性質のものではないような気がします。
これこそ親鸞の言う「他力」信仰であり、
人間であれ、神であれ絶対者を想定しない発想です。

これまで、私たちは法律でも経済でも
客観的、合理的でないとものごとをすすめられないことを当たり前のこととしてきました。
西欧流のアイデンティティー(それは日本語表記では「アイデンチチ」)を受け入れない限り合理性、近代社会のなかには入れないような呪縛にずっととらわれており、今でもその流れのうえにいるといえますが、
日本人のアイデンティティをもし本当にとり戻すことを考えるならば、
無理やり「イン・ゴッド」と「天地創造の父」への誓いをたてるよりも
生命の豊かな「母」にいだかれていることへの信頼を取り戻すことのほうが
世界に対するメッセージとしても、これからの時代にふさわしい
ずっと進んだ世界観として提示できるのではないかと思うのです。

そのアイデンティティーとは
努力の積み重ねや理論武装を重ねること
経済的な成功で自分を大きくしていくことで築かれるようなものではなく、
自然と人間の生命そのものへの絶対的信頼に裏打ちされたなにかではないかと、
漠然と思っているのです。

私は、そんな思想背景を親鸞の「他力」思想のなかに感じます。



この話は国家統一への現代に至るベクトルの起点として信長の存在をみて
その反作用として成長した浄土真宗一向一揆の普及発展の経緯をみる
枕としてのお話のつもりでもあるのだけど・・・