~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

乾いた文化は重さに耐えられない

前回の日記、やっぱり重かったですね。 すみません。
それも狙いのうちなんですが、
皆さんの身近に事例が溢れているのを聞いても、つくづく
自殺に追い込まれるようなところまでいった人につきあったり、
ましてや救おうなんて努力をするのは、とても難しく大変なことだと感じました。

それだけに、私は、そこまで追い込まれる前の段階での、
ひととのつき合い方と、
そうした環境に多くの人を追い込んでいく、
あるいは排除していく現代社会の構造を問いたいの思うのです。

女性コメディアンの誰かが、「重い」女を、

お願い~!!
わだじをずてないで~~!!
もういじど、あいじでるって言っでーーーーー!

てなギャグをやってましたが、
こうなったらもう終わり。
こうなる前に、手をうっておかなければいけない。



こうした話題が「重い」と感じるのは誰も同じですが、
他方で、現代社会全体が、重い世界を出来るだけ遠ざけて、
より軽く軽快、快適な世界へ進歩してきた大きな流れがあると思います。

面倒な人間関係=古い封建的村社会とばかりに
合理的で手間のかからない社会がどんどん進歩してきて
その代表がコンビニ文化。

食品でも、規格のそろわない作物やちょっと汚れた作物は市場から排除され、
会社や学校でも、ちょっとでも組織の和を乱す者は排除され続けてきました。
大ざっぱには、国家レベルで規格に合わないものを排除して強引な統一を推し進めてきた歴史こそ、
「近代化」の実態であったともいえます。

えへへへ。
ここでやっとまえの連載のテーマに結びつくのですが、
この扱いやすい便利な規格の統一されたものへ集約していく文化
感覚的には「乾いた」「軽い」「快適な」文化から、

一挙に「重い」とまではいかずとも
「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」文化へ
「戻る」ではなくて、一歩上がる時代に来ているのではないでしょうか。

これはデジタル化が一挙に進化していく時代には、
人類にとってとても大事な試練のように思えます。

さきの自殺者のはなしに戻すと、
多くの人にとって、身近に存在する自殺予備軍のひとたちをなんとかしろといっても、声をかけたところでどうにもならない場合が多いのではないかと思います。
しかし、いきなりそうした人たちではなくて、日ごろ
自分のいる組織や集団のなかにいる様々なやっかいな人びとに対して、
共同体の一員として繋がりを持ち続けること、
これが出来なければダメで、簡単に切り捨てることなく、
これがダメならこっちではどうだ?
と、次々に創造的提案ができること、
そうした創造性が、「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」社会のなかで必要なのではないかと思うのです。

自殺者の増加や信じがたい殺人の増加など、
いづれもひとの命や存在が「軽く」なってきていることの現われだと思いますが、そこに、人の「命の重さ」を訴えましょうといったことも必要でしょうが、それは簡単にはなかなか伝わらないでしょう。

それよりも私は、日常の関係のなかに
「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」
ものを取り戻すことが大事なのではないかと感じます。

手前みそながら、それは単語で交わす会話ではなく、
叙述をともなう会話であり、
時には酒を飲みながら朝まで語りあかす会話の世界。

そういう私も、
仕事が忙しいからとかいって面倒くさいことからは逃げてしまうことが多いのですが、
大事な問題こそ、
仕事を中断してでも立ち止まって、必要なだけ時間をさく勇気のある社会。

「客観的、公平に」なんていうクソ食らえ言葉を使うことなく
「価値」と自分の「責任」を優先する思考を少しでも取り戻すことこそが、
もう手に負えないやっかいな人びとを減らす最善の方策なのではないかと思うのですが。。。
(自分勝手なイイ時代を夢見てるって?)

でも、ここを社会で理解しあえないと
裁判員制度」なんてとても機能するとは思えない。




会社のため、職場への適性を口実に、やる気のまだある従業員を辞めさせた昔の自分、
自分を頼りにしてきてくれているにもかかわらず、仕事を口実に逃げ続けた自分への反省を込めて。