~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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暦が証明する割り切れない自然

先日、早朝に月夜野へ行ってきたら、いつの間にやら沿線の木々が
まばゆいほどの新緑にもえぎ盛っていました。

この植物のエネルギーのもえ(萌え)さかる姿を見ると、
1年は春からスタートするものとの年度志向が当然のことに感じられます。

ところが、なぜか世界標準ともいえる暦は
1月という寒い時期が1年の始まりになっています。

このことについては以前、一年のうちで、どうして2月だけが
閏年や28日なんていう少ない日数にさせられ、
一年の矛盾を一身に背負わされなければならないのか?
という疑問を「2月生まれの乱」として提起した時にふれました。

これだけ科学技術、天文学の進歩した現代で、
均等な12ヶ月割りでなく、2月だけが極端な調整役を一身に背負わされることに
どんな合理的根拠があるのだろうか、という問いです。

そのときに理由として確認されたのは、

もともとローマの暦では、1年が3月から始まっていて、
3月から始まって10ヶ月という考え方をしていました。
そして残りの二ヶ月分は「死の季節」だと・・・

二月だけが他の月より日数が少ないのは、最後の月であったため調整に使われたのと、
もうひとつの理由は、アウグストゥス帝のわがままによるものとのこと。


なんで、こんな非合理的な暦を現代でも使わなければならないかというと、
第一に、月の周期で決まる一ヶ月の単位と地球が太陽の周りをまわる
公転周期の辻褄あわせという難題にこたえるためと、
第二に、それらの矛盾を12ヶ月で表現するために、30なり31日で表現するにしても、
必ず「整数」で処理しなかればならないという問題があるからです。

で、前回の話【4月27日の日記】の流れからは、
静止した物体(見かけ上)は三角形をその最も安定した状態としてもち、
安定しているということは、
同時に分割しやすいという性格をあわせ持つ。

それに対して運動している物体は、
内部に矛盾をはらんでいるからこそ、
運動しているといえる意味において、
割り切れない数字(円周率のように)を絶えず不可分のものとしてもつ。
その継続した運動状態の最も安定した姿が円(○)であると。

この原則からフラーの理論などにつながっていったり、
道教や禅思想の○などの原理へとイメージはつながるのですが、

固定的でない運動する物体は、
それが最も安定した状態であっても、多少の不安定を伴った状態であっても、
運動している、あるいは生きているということから
必然的に「割り切れない」という性格と
「整数」ではあらわしにくいという性格を持っている
という大原則を持っているのです。

このことを現代の日常生活では忘れられてしまっているだけでなく、
意図的にそうした思考を近代の歴史では排除してきた経緯があると感じるのです。



もうひとつ。
「丸い」ということの必然からまた、
始まりと終わりの設定し難い継続した運動表現であることから、
1年のはまりをいつにするか(冬?春?)
ひと月のはじまりをいつにするか(新月、半月、満月)
1日のはじまりをいつにするか(日の出?深夜?)
といった問題が生じる。

この円という性格からすれば、現行の暦の姿に
絶対的な合理性が決してあるものではなく、
現在の暦に至るまで様々な試行錯誤が繰り返されたように、
まだ非合理な矛盾を多分に含んでいるということを忘れてはならない。

確かに世界的に普及してしまったものを変えるのは大変なことです。
それだけに今求められるのは、全否定をすることではなく、
世界標準と同時にローカルな基準というものも、
言語と同様にあってもおかしくはないのではないかというのが
「2月生れの乱」と「月夜野町は旧暦を公用歴に」という私の叫びの趣旨なのです。


で、この難題に挑むもうひとつの背景は、
ものごとを整数によってのみ表現する思考、
割り切れないものを排除する思考
これから脱却することが、自然界に生きる人間にとってとても大切であると感じるからでもあります。

かつて日本の一日の時間は、非定時法を用いており、
同じ一日24時間でも
日の長い夏の昼間の12時間は長く
日の短い冬の昼間の12時間は短く設定されていました。

日の出と日の入りの時刻から逆算して12等分なり6等分していたわけですから、
1時間の長さが季節によって違ったということです。

これは不便で非合理であるかのように思われていますが、
自然と人間の生理を中心にした発想からは、
とても正当な考え方です。

グローバル経済と同じく、
世界標準という発想や考え方が普及していくこと事態は、
避けられないばかりでなく、決して間違ったことではありません。

しかし、その世界標準とともに、他のローカルな表現方法や
異なる規格のモノサシは、世界標準が絶対的でないという意味だけでなく
表現を広げ、より深い交流を進めるためにも必要なことであるということが、
これから少しずつ認められてくるのではないかと思うのです。


話を戻して、ひとつの円環運動の起点をどうするかという問題。

春から1年が始まるのではなく、寒い冬から始まるという感覚、
太陽の昇る朝から一日が始まるのではなく、真夜中の零時から1日が始まるという感覚、

これらは
「陰極まって陽となり、陽極まって陰に転ず」という
中国独特の陰陽思想の影響がみられるとも言われてます。

陰(寒)の極限の頃であるからこそ、
陽(暖)のはじめとなる。

でも、そんなことは知らなくても、
陰、闇、寒の極がどこにあるかということを、
時計の針に頼ることではなく、生きていく感覚としてつかむことが、
陽、明、暖に転ずるエネルギーの感覚として
とても大事なことだと思うのです。

毎度、とりとめのない思いつきで書いているに過ぎない文ですが、
そんな円(○)というものの性格を考えるにつけ、
通貨単位で円を使っていることと
国旗が日の丸をデザインしていることって
なんて素晴らしいことなんだろうと思ってしまう。

と、言いながら、
日頃、天皇とは友達でも親戚でもないので
君が代」はキライ!なんて言ってる私なのですが・・・・