~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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貫前神社の謎

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上州の一宮神社として歴史のある貫前神社

群馬県人であれば上毛カルタ
「ゆかりは古い貫前神社
と誰もが知っていることと思います。


この神社は珍しい下り参道が有名なのですが、今年、初詣に行ったとき、それが上ってから下る参道であることを知りました。

車で一の宮北の信号から入る指定の駐車場へ誘導されるルートだと、車で山の上に上がってしまうので、下り参道のイメージになってしまうのです。

ところが徒歩で参詣する人は、かならず一度長い階段を上がってから下り参道に入ります。

いろいろな紹介文で「下り参道」が有名な神社と書かれていますが、これは明らかに下り参道が特徴なのではなく、山に隠された神社であることが本質だと思うのです。

これは、なんらかの理由で神社そのものを隠すためか、なにかを封印するためか、あるいは何かから防御のための構造としか思えません。

この神社のもうひとつの特徴である、物部氏と渡来人ふたつの神を祀っていることをあわせて考えると、謎めいたなにかがありそうな気がしてなりません。

二神と祀るこの神社の特徴については、尾崎喜左雄先生が『上野国の信仰と文化』尾崎先生著書刊行会刊(絶版)のなかで詳細な研究報告をされてますが、残念ながら当時の物部氏と渡来人の特徴にまでふれた言及はあまりありませんでした。

一貫して素人の発想ですが、そもそも古代、日本の伝統的な神道を守り抜こうとした物部氏と、仏教を日本に持ち込んだ渡来人が仲良く祀られること自体、なんかおかしい。

わたしは、藤原氏や渡来人から一度抹殺された物部氏の祟りを恐れた渡来人が、菅原道真を祀った神社と同じようにつくったのがこの貫前神社なのではないかと勝手に思っているのですが、そんなこと書いてる本はどこにもありません。

物部氏を恐れる渡来人(この辺は新羅人)が、物部氏を祀る神社を隠して(恐れて)祀ったというのが、この珍しい構造になっているのではないでしょうか。

素人考えなのかもしれませんが、私はこれを立証する資料をまとめてみたいと思ってます。
どなたかこの神社の特徴の理由に関する情報をお持ちの方がいたら、教えてください。
「子持の眠り姫」に続く3つ折パンフをつくる予定です。


一応、他の理由として、この神社のご神体が本殿の後ろにある杉の大木であることも考えられます。
裏日本では、樹をご神体として祀る例があるので、その大木に寄せて本殿を置いたことも考えられなくもない。
貫前神社と巨木信仰とのかかわりについては、近藤義雄先生が『上州の神と仏』煥乎堂(絶版)のなかで指摘されてました。

でも、ご神木との関係では、なにもそんなに隣接してなくても良い例はたくさんあります。

手前の山の上が狭いので北の斜面に本殿を移したなどという理由はありえないほど、手前の山の上には広い空間が空いているのです。


こんなことを考えてしまうのも、関裕二の『藤原氏の正体』『物部氏の正体』などの本を読んでしまったせいです。

今まで古代史は考え出すときりがないので、手を出さずにいたのですが、とうとうはまってしまいました。

また仕事してるヒマがなくなってしまった。