古典文学全集いろいろ
来月、熊野方面にいくのでその準備をしながら、『梁塵秘抄』を少し勉強しておかなければと、専属の先生(?)に伺いをたてたら、実に様々な種類の『梁塵秘抄』を見せてくれました。
先生(?)曰く、私は小学館版の古典文学全集が一番読みやすいと思ってるけど、そのシリーズでは持っていないので、古書で仕入れておいて。
といわれたので、自分用の新潮古典文学全集版も一緒に仕入れて、岩波版、筑摩書房版など並べて見比べてみました。
しかし深く見比べて考える前に、いろいろなことが思い浮かんでしまったので、まずそのことを書いておきます。
学術的なものも含めれば、尚学図書版、新典社版、など実にたくさんあるのですが、こうした全集ものというのは、発売直後以外はなかなか手に入りにくいもの。
どうしても、古書か図書館にたよるしかないのが現実。
(本屋は発売時にもっとしっかり売っておけということか)
よく学校図書館から、文学全集全巻揃えたいのだけれども、なにかいいもの紹介してくださいと言われるのですが、こうした企画商品は、出た直後以外は、ほぼ増刷されることはないので、運よくあってもたいていは歯抜け状態、ほとんど要望に応えられない場合が多い。
加えて、時代が変わってしまったためか、20年、30年前まで常識であった作品が古典としての定番から消えてしまったものも少なくない。
どうも先生方からは、装丁も含めてなんかこれでは違うと言われるものばかり。
そんなことを思いながら細かく構成をみていると、記紀と称される定番中の定番である古事記、日本書紀ではあるけれど、なぜかシリーズのなかに『古事記』はあっても『日本書紀』は含まれていない場合が多い。
『日本書紀』長いからなのか、文学的鑑賞の魅力に欠けるからなのか、その歴史的重要度に比べるとどうにも理解しがたい。
加えて『明月記』もなぜか古典シリーズには入らない。
ちょうどそんな声が聞こえたでもあるまいが、河出書房新社の古典文庫シリーズで、福永武彦による『現代語訳日本書紀』が発売されたところ。
岩波書店の日本古典文学大系などとても買う気にはなれない私には、待ってましたとばかりの刊行で助かりました。
お勉強のためや研究者のためではなく、通常わたしたちが文学鑑賞や歴史のお勉強の一環として読むような場合、岩波版はやはり硬い(しっかりした箱入の装丁は良いのだけど)。
そうした意味で、小学館の現行版のではなく、古い古典文学全集のものが、新潮社と同じくコンパクトで読みやすい。一般市場に出たものではありませんが、ほるぷ出版の「日本の文学 古典編」とともに入門者にはちょうど良いシリーズです。
このところ『古事記』などを皮切りに、古典作品を現代語訳に止まらず、口語訳までして、より多くの人が鑑賞できるようにしたものが出ています。
古典そのものを楽しみ、鑑賞することを考えれば、決してそれは邪道ではなく、わたしは必要な考え方であると思いますが、古典文学の先生方からしたら、それはけしからんということにどうしてもなってしまうのでしょう。
もちろん市場の需要と出版の価値を同列にしてはいけないことが重々承知のことですが、店頭の商品の動きをみても、年配のお客さんが、万葉集を読みたい、徒然草を読みたいと思っても手に取るとなかなか手頃な読みやすいものがないので悩んでいるのがよくわかります。
並べておいておくと角川文庫のビギナーズ・クラシックス・シリーズの動きがやはりとても良い。古典文学を並べておかない場合が、岩波文庫に流れることが多いのだけれど、それと同じように講談社学術文庫版も、講談社学術文庫の棚に埋もれてしまっているばかりに本来の需要に合致していないのではないかと思われます。
でも、もっとよく内容を見比べると、シリーズや出版社で評価を決めてしまうことよりも、ひとつひとつの訳者、鑑集、解説者で判断するのが最も正しいのでしょう。
まったく別次元のことですが、長いあいだ大事な人であると思いながらも、とっつきにくく理解しがたいと思っていたルドルフ・シュタイナーの著作が、筑摩書房から高橋巌さんの訳で出たおかげで、ようやく私にも理解できるようになったというようなこともあります。
日本の古典文学も、これと同じように、文法的にこの解釈が正しいというだけでなく、より深い理解でわかりやすく伝えてくれているものこそ、すばらしい著作であるといえるのでしょう。
そんなこんなの結論として、今度の熊野行きには、ちくま文庫の『梁塵秘抄』を持っていくことにします。
先生(?)曰く、私は小学館版の古典文学全集が一番読みやすいと思ってるけど、そのシリーズでは持っていないので、古書で仕入れておいて。
といわれたので、自分用の新潮古典文学全集版も一緒に仕入れて、岩波版、筑摩書房版など並べて見比べてみました。
しかし深く見比べて考える前に、いろいろなことが思い浮かんでしまったので、まずそのことを書いておきます。
学術的なものも含めれば、尚学図書版、新典社版、など実にたくさんあるのですが、こうした全集ものというのは、発売直後以外はなかなか手に入りにくいもの。
どうしても、古書か図書館にたよるしかないのが現実。
(本屋は発売時にもっとしっかり売っておけということか)
よく学校図書館から、文学全集全巻揃えたいのだけれども、なにかいいもの紹介してくださいと言われるのですが、こうした企画商品は、出た直後以外は、ほぼ増刷されることはないので、運よくあってもたいていは歯抜け状態、ほとんど要望に応えられない場合が多い。
加えて、時代が変わってしまったためか、20年、30年前まで常識であった作品が古典としての定番から消えてしまったものも少なくない。
どうも先生方からは、装丁も含めてなんかこれでは違うと言われるものばかり。
そんなことを思いながら細かく構成をみていると、記紀と称される定番中の定番である古事記、日本書紀ではあるけれど、なぜかシリーズのなかに『古事記』はあっても『日本書紀』は含まれていない場合が多い。
『日本書紀』長いからなのか、文学的鑑賞の魅力に欠けるからなのか、その歴史的重要度に比べるとどうにも理解しがたい。
加えて『明月記』もなぜか古典シリーズには入らない。
ちょうどそんな声が聞こえたでもあるまいが、河出書房新社の古典文庫シリーズで、福永武彦による『現代語訳日本書紀』が発売されたところ。
岩波書店の日本古典文学大系などとても買う気にはなれない私には、待ってましたとばかりの刊行で助かりました。
お勉強のためや研究者のためではなく、通常わたしたちが文学鑑賞や歴史のお勉強の一環として読むような場合、岩波版はやはり硬い(しっかりした箱入の装丁は良いのだけど)。
そうした意味で、小学館の現行版のではなく、古い古典文学全集のものが、新潮社と同じくコンパクトで読みやすい。一般市場に出たものではありませんが、ほるぷ出版の「日本の文学 古典編」とともに入門者にはちょうど良いシリーズです。
このところ『古事記』などを皮切りに、古典作品を現代語訳に止まらず、口語訳までして、より多くの人が鑑賞できるようにしたものが出ています。
古典そのものを楽しみ、鑑賞することを考えれば、決してそれは邪道ではなく、わたしは必要な考え方であると思いますが、古典文学の先生方からしたら、それはけしからんということにどうしてもなってしまうのでしょう。
もちろん市場の需要と出版の価値を同列にしてはいけないことが重々承知のことですが、店頭の商品の動きをみても、年配のお客さんが、万葉集を読みたい、徒然草を読みたいと思っても手に取るとなかなか手頃な読みやすいものがないので悩んでいるのがよくわかります。
並べておいておくと角川文庫のビギナーズ・クラシックス・シリーズの動きがやはりとても良い。古典文学を並べておかない場合が、岩波文庫に流れることが多いのだけれど、それと同じように講談社学術文庫版も、講談社学術文庫の棚に埋もれてしまっているばかりに本来の需要に合致していないのではないかと思われます。
でも、もっとよく内容を見比べると、シリーズや出版社で評価を決めてしまうことよりも、ひとつひとつの訳者、鑑集、解説者で判断するのが最も正しいのでしょう。
まったく別次元のことですが、長いあいだ大事な人であると思いながらも、とっつきにくく理解しがたいと思っていたルドルフ・シュタイナーの著作が、筑摩書房から高橋巌さんの訳で出たおかげで、ようやく私にも理解できるようになったというようなこともあります。
日本の古典文学も、これと同じように、文法的にこの解釈が正しいというだけでなく、より深い理解でわかりやすく伝えてくれているものこそ、すばらしい著作であるといえるのでしょう。
そんなこんなの結論として、今度の熊野行きには、ちくま文庫の『梁塵秘抄』を持っていくことにします。