良寛についてのいい本はないですか?
仏教関係の話をよくするある常連のお客さんから、良寛についての何かいい本を紹介してくれないかと聞かれました。
そのお客さんは、日ごろから仏教関係のかなり難しい本を買っていかれる方だったのですが、
なぜか良寛は、まだじっくり勉強したことはなかったというのです。
貞心尼の実家が大胡であることや、良寛の手毬歌で慰められた娘たちが売られてきた先が伊勢崎であったらしいこと、あるいは群馬に良寛美術館があることなど、意外と群馬と良寛との縁は深いことがあまり知られていません。
そんな話を以前したこともあって、私にたずねてくれたのかと思うのですが、改めて考えてみると
良寛についてのお薦めの本、これは意外と難しい。簡単にはなぜか思い浮かばない。
なんとか悩んで、いつも難しい仏教書を買われるそのお客さんに選んだ本は、
長谷川洋三の『良寛禅師の悟境と風光』 大法輪閣、
『良寛禅師の真実相』 名著刊行会
柳田聖山 『沙門良寛』 人文書院
を紹介したのですが、なにか間違ったことをしてしまったような気がしてなりません。
親鸞や道元などの鎌倉仏教の開祖たちともなると、いくらでも大事な本のタイトルが浮かんでくるのですが、こと良寛となると、好きな坊さんであるだけに買うだけはたくさん買ってあるものの、決定的な本というものがなかなか思い当たりません。
それは道元のように理論的著作は、あまり残していないことや、
親鸞のような論争を喚起するような視点にあふれているわけでもないことによるのかもしれませんが、
どうも良寛となると、本を読んで勉強するという感じがいまひとつしません。
もちろんその生涯を知り、和歌や漢詩などの詩の世界や書の魅力、または数々の逸話などを本を通じて学ぶところはたくさんあります。
でも不思議と良寛さんから学ぶことというのは、総合的な知識や体系的な理解を必要としない性質を持っているような気がするのです。
本を読まずとも、ただ
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ
とか
災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候
死ぬ時節には 死ぬがよく候
是はこれ 災難をのがるる妙法にて候
とかの、良寛さんの残した詩やことば、おこないのいくつかを知るだけで、
なぜか膨大な著作を読まずとも、良寛さんの全体をその瞬間に私たちは感じとってしまうような気がするのです。
瞬間、刹那をもって全体を知る、悟るとなると
禅の公案問答を思い浮かべますが、良寛さんの場合は、それよりももっと単純でわかりやすく、深いようなものがあります。
深いというとそれはまた誤解されそうです。
それは、まったく余計な力の入っていない状態で得た悟りの世界だから。
良寛の思想のベースになっている法華経の教えであるとか、道元の思想をどのように取り入れてしるのかといったようなことは
一部の研究者にまかせておけばよい。
わたしたちは、子供たちが良寛さんに手毬で遊んでもらったように
良寛さんと同じ時間をほんのひと時でも共有させてもらうだけで十分なのではないかと感じるのです。
わたしの感覚がそこにある良寛さんに届いた瞬間・・・、
もう何もいらない。
つきてみよ 一二三四五六七八 九の十
十とをさめて またはじまるを
そのお客さんは、日ごろから仏教関係のかなり難しい本を買っていかれる方だったのですが、
なぜか良寛は、まだじっくり勉強したことはなかったというのです。
貞心尼の実家が大胡であることや、良寛の手毬歌で慰められた娘たちが売られてきた先が伊勢崎であったらしいこと、あるいは群馬に良寛美術館があることなど、意外と群馬と良寛との縁は深いことがあまり知られていません。
そんな話を以前したこともあって、私にたずねてくれたのかと思うのですが、改めて考えてみると
良寛についてのお薦めの本、これは意外と難しい。簡単にはなぜか思い浮かばない。
なんとか悩んで、いつも難しい仏教書を買われるそのお客さんに選んだ本は、
長谷川洋三の『良寛禅師の悟境と風光』 大法輪閣、
『良寛禅師の真実相』 名著刊行会
柳田聖山 『沙門良寛』 人文書院
を紹介したのですが、なにか間違ったことをしてしまったような気がしてなりません。
親鸞や道元などの鎌倉仏教の開祖たちともなると、いくらでも大事な本のタイトルが浮かんでくるのですが、こと良寛となると、好きな坊さんであるだけに買うだけはたくさん買ってあるものの、決定的な本というものがなかなか思い当たりません。
それは道元のように理論的著作は、あまり残していないことや、
親鸞のような論争を喚起するような視点にあふれているわけでもないことによるのかもしれませんが、
どうも良寛となると、本を読んで勉強するという感じがいまひとつしません。
もちろんその生涯を知り、和歌や漢詩などの詩の世界や書の魅力、または数々の逸話などを本を通じて学ぶところはたくさんあります。
でも不思議と良寛さんから学ぶことというのは、総合的な知識や体系的な理解を必要としない性質を持っているような気がするのです。
本を読まずとも、ただ
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ
とか
災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候
死ぬ時節には 死ぬがよく候
是はこれ 災難をのがるる妙法にて候
とかの、良寛さんの残した詩やことば、おこないのいくつかを知るだけで、
なぜか膨大な著作を読まずとも、良寛さんの全体をその瞬間に私たちは感じとってしまうような気がするのです。
瞬間、刹那をもって全体を知る、悟るとなると
禅の公案問答を思い浮かべますが、良寛さんの場合は、それよりももっと単純でわかりやすく、深いようなものがあります。
深いというとそれはまた誤解されそうです。
それは、まったく余計な力の入っていない状態で得た悟りの世界だから。
良寛の思想のベースになっている法華経の教えであるとか、道元の思想をどのように取り入れてしるのかといったようなことは
一部の研究者にまかせておけばよい。
わたしたちは、子供たちが良寛さんに手毬で遊んでもらったように
良寛さんと同じ時間をほんのひと時でも共有させてもらうだけで十分なのではないかと感じるのです。
わたしの感覚がそこにある良寛さんに届いた瞬間・・・、
もう何もいらない。
つきてみよ 一二三四五六七八 九の十
十とをさめて またはじまるを