小町噺三題
最近買うお米、身近にお米屋さんといのを見かけなくなってから
もっぱらスーパーで買うしかなくなってしまった。
馴染みの酒屋にいくと、その時々のお勧めの上等な美味い米が買えるのですが、
日常で使うにはちょっと高い。
やっと見つけた米屋さんに駆け込んだとき、
玄米が欲しいんですけど、といったところ、
そこのお婆さん、きょとんとした顔して
今、玄米は置いてないという。
えっ?せっかく米屋に来たのに?
これだけブームにもなってるのに?
米屋でこそ、売るべきものなのに?
お婆さん相手に議論してもしょうがないので、諦めてスーパーに行くことにしました。
てなことで最近は玄米もお米もスーパーで買うようになったけど、
なぜか現実には沼田の親戚から貰うお米が一番うまい。
スーパーに行くと、どうもパッケージを見ただけで購買意欲のわくお米がなかなかない。
たまに「どこどこ産こしひかり」なんてのが売り出しで出ているけど、
本物以外のこしひかりは、どうも粒が小さくて好きでない。
群馬には地元のお米で「ゴロピカリ」というのがありますが、
どこも光った感じがするわけでもなく、かといってお腹を壊すわけでもなく、
決め手に欠けるので、結局、買うことがない。
そんなこんなで最近落ち着いたのは「秋田こまち」
いろいろ買ってみましたが、なんとなくこれに落ち着きました。
そんな日本のお米事情について
北海道の同業者が紹介していた本
『コメほど汚い世界はない』
宝島社 吾妻博勝
価格 1,300円(本体1,238円+税)
私は新潟の魚沼地方に高校時代住んでいましたが、
あれだけのブランド力がありながらも、農家は生産コストがとても高く、決して豊かであるとはいえない。
ひたすら流通業者だけが、様々な混合方法などで儲けている。
これはお酒なども共通していることですが、いいものは量販ルートに乗ったらもうダメ。
直接、生産者からその季節に買うようでないと、ほんとうのおいしいものは手に入らない。
だからこそ、有名ブランドよりも、地元の搗きたての方がうまい。
仕方なしではあるけど、不思議と比較的安心して食べられるのが「あきたこまち」
その「こまち」は、もちろん小野小町からきているのだけれども、
小野小町ほど歴史のほんとうの実像がわかっていない有名人もいない。
とにかく才能ある美人であったということしかわかっていない。
つまり、「あきたこまち」も、その実態はなにを食わされているかはわからない、といったことろだろうか。
正体不明の有名人であるからこそ、なおさら小町を題材にした言葉や逸話、物語もたくさんある。
「小町糸」「小町針」「小町娘」「小町算」
謡曲では、「卒塔婆小町」「草子洗小町」「鸚鵡小町」「通小町」「関寺小町」の五小町が有名らしい。
ほとんど知りませんが、このなかの「卒塔婆小町」は、とても興味深い物語になっています。
さて「卒塔婆小町」では、シテの小町は百歳(ももとせ)にも及び醜くなった老女、ワキは高野山の若き僧侶、という設定である。
高野の僧は、「人間として生を受け、値い難い如来の教えに触れ、こんなに幸せなことはない。これも仏の種となると思い、
墨染めの衣に身をなして親も子もなく住む家もなく、天涯孤独を旨とする」として、
これこそが僧侶の鏡と誇る姿に描かれている。
一方のシテ役の小町は、「その昔は可憐と褒められ、加えて才色兼備と讃えられていた麗人が、
今はその面影を微塵もとどめず世間に恥をさらしている哀れな老婆」という役回りである。
その老婆が都を後にしてさまよい歩き、いつしか遠く鳥羽まで来てしまったが、年を重ねた上に疲れきってしまい、
息苦しくなったので路傍に横たわる朽木に腰をかけて休んでいた。そこへ高野山で修業を終え従僧を伴い都へ上ろうとする僧侶が、
老婆の姿を目撃するところから話が始まるのである。
一方は年老いて醜くなった老女、もう一方は高野山で厳しい修行を終え自信満々の若き僧侶という設定である。
(小峰弥彦 『弁慶はなぜ勧進帳をよむのか』NHK出版より)
見せ場はこの僧侶が、老婆が腰かけている朽木は仏体色相たる卒塔婆であると、老婆にすぐにそこから立ち退くように言うのですが、
生半可な仏教知識をぶつけてくる僧侶に老婆が次々と反論して、逆に法華経の真の教えを悟らせるという対話の場面です。
本物の舞台が観てみたい作品です。
だいたい小町という存在の利用のされ方は、才色兼備の美女であることか、
老いて変わり果てた姿を、老婆の姿や髑髏を通じてそのギャップを強調するものが多い。
ところがもうひとつ小町から生まれたもので面白いものを知った。
その元ネタは「通い小町」で、
小野小町は、彼女に恋した深草の少将に、自分のもとに百夜通ってくれれば結婚すると約束した。
しかし深草の少将は九十九夜通ったが、あと一夜というところで急死してしまった、という話なのですが、
ここから小町という言葉と、百に至るかどうかという話がつながる。
そこで生まれたのが「小町算」。
1から9までの数字を順番にならべて、その間を+、-、×、÷などを使って合計が100になるパズル遊び。
例 1+2+3+4+5+6+7+8×9 = 100
123-45-67+89 = 100
ググッてみたら、この他に実にもたくさんあることを知りました。
日本人って、ほんとにスゴイですね。
そんなことを思いながら、今夜も
安い「秋田こまち」のおいしいご飯を食べています。
もっぱらスーパーで買うしかなくなってしまった。
馴染みの酒屋にいくと、その時々のお勧めの上等な美味い米が買えるのですが、
日常で使うにはちょっと高い。
やっと見つけた米屋さんに駆け込んだとき、
玄米が欲しいんですけど、といったところ、
そこのお婆さん、きょとんとした顔して
今、玄米は置いてないという。
えっ?せっかく米屋に来たのに?
これだけブームにもなってるのに?
米屋でこそ、売るべきものなのに?
お婆さん相手に議論してもしょうがないので、諦めてスーパーに行くことにしました。
てなことで最近は玄米もお米もスーパーで買うようになったけど、
なぜか現実には沼田の親戚から貰うお米が一番うまい。
スーパーに行くと、どうもパッケージを見ただけで購買意欲のわくお米がなかなかない。
たまに「どこどこ産こしひかり」なんてのが売り出しで出ているけど、
本物以外のこしひかりは、どうも粒が小さくて好きでない。
群馬には地元のお米で「ゴロピカリ」というのがありますが、
どこも光った感じがするわけでもなく、かといってお腹を壊すわけでもなく、
決め手に欠けるので、結局、買うことがない。
そんなこんなで最近落ち着いたのは「秋田こまち」
いろいろ買ってみましたが、なんとなくこれに落ち着きました。
そんな日本のお米事情について
北海道の同業者が紹介していた本
『コメほど汚い世界はない』
宝島社 吾妻博勝
価格 1,300円(本体1,238円+税)
私は新潟の魚沼地方に高校時代住んでいましたが、
あれだけのブランド力がありながらも、農家は生産コストがとても高く、決して豊かであるとはいえない。
ひたすら流通業者だけが、様々な混合方法などで儲けている。
これはお酒なども共通していることですが、いいものは量販ルートに乗ったらもうダメ。
直接、生産者からその季節に買うようでないと、ほんとうのおいしいものは手に入らない。
だからこそ、有名ブランドよりも、地元の搗きたての方がうまい。
仕方なしではあるけど、不思議と比較的安心して食べられるのが「あきたこまち」
その「こまち」は、もちろん小野小町からきているのだけれども、
小野小町ほど歴史のほんとうの実像がわかっていない有名人もいない。
とにかく才能ある美人であったということしかわかっていない。
つまり、「あきたこまち」も、その実態はなにを食わされているかはわからない、といったことろだろうか。
正体不明の有名人であるからこそ、なおさら小町を題材にした言葉や逸話、物語もたくさんある。
「小町糸」「小町針」「小町娘」「小町算」
謡曲では、「卒塔婆小町」「草子洗小町」「鸚鵡小町」「通小町」「関寺小町」の五小町が有名らしい。
ほとんど知りませんが、このなかの「卒塔婆小町」は、とても興味深い物語になっています。
さて「卒塔婆小町」では、シテの小町は百歳(ももとせ)にも及び醜くなった老女、ワキは高野山の若き僧侶、という設定である。
高野の僧は、「人間として生を受け、値い難い如来の教えに触れ、こんなに幸せなことはない。これも仏の種となると思い、
墨染めの衣に身をなして親も子もなく住む家もなく、天涯孤独を旨とする」として、
これこそが僧侶の鏡と誇る姿に描かれている。
一方のシテ役の小町は、「その昔は可憐と褒められ、加えて才色兼備と讃えられていた麗人が、
今はその面影を微塵もとどめず世間に恥をさらしている哀れな老婆」という役回りである。
その老婆が都を後にしてさまよい歩き、いつしか遠く鳥羽まで来てしまったが、年を重ねた上に疲れきってしまい、
息苦しくなったので路傍に横たわる朽木に腰をかけて休んでいた。そこへ高野山で修業を終え従僧を伴い都へ上ろうとする僧侶が、
老婆の姿を目撃するところから話が始まるのである。
一方は年老いて醜くなった老女、もう一方は高野山で厳しい修行を終え自信満々の若き僧侶という設定である。
(小峰弥彦 『弁慶はなぜ勧進帳をよむのか』NHK出版より)
見せ場はこの僧侶が、老婆が腰かけている朽木は仏体色相たる卒塔婆であると、老婆にすぐにそこから立ち退くように言うのですが、
生半可な仏教知識をぶつけてくる僧侶に老婆が次々と反論して、逆に法華経の真の教えを悟らせるという対話の場面です。
本物の舞台が観てみたい作品です。
だいたい小町という存在の利用のされ方は、才色兼備の美女であることか、
老いて変わり果てた姿を、老婆の姿や髑髏を通じてそのギャップを強調するものが多い。
ところがもうひとつ小町から生まれたもので面白いものを知った。
その元ネタは「通い小町」で、
小野小町は、彼女に恋した深草の少将に、自分のもとに百夜通ってくれれば結婚すると約束した。
しかし深草の少将は九十九夜通ったが、あと一夜というところで急死してしまった、という話なのですが、
ここから小町という言葉と、百に至るかどうかという話がつながる。
そこで生まれたのが「小町算」。
1から9までの数字を順番にならべて、その間を+、-、×、÷などを使って合計が100になるパズル遊び。
例 1+2+3+4+5+6+7+8×9 = 100
123-45-67+89 = 100
ググッてみたら、この他に実にもたくさんあることを知りました。
日本人って、ほんとにスゴイですね。
そんなことを思いながら、今夜も
安い「秋田こまち」のおいしいご飯を食べています。