~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

今や全世界にはりめぐらされたインターネットというインフラとその検索技術が社会にもたらした変化は、情報を所有することには意味がなくなる時代に入りだしている、ということなのではないかと思います。

情報は、「所有権」の時代から「利用権」の時代へ移行しだしたといえるのではないでしょうか。

かつては、どれだけの知識があるかは、どれだけの蔵書を持っているのかといった条件とほぼ同じような意味がありました。
ところがいまでは、パソコンに限らず携帯電話、さらに間もなく地デジテレビなどを通じて、どこからでも必要な情報にアクセスできるようになりました。
国会図書館の蔵書の中身ですら、世界中から閲覧できるようになるのです。

蔵書の量に等しいような知識の量だけを売っている学者は、もう食べていけないのです。

このことは、情報というものが本来持っている性格があらためて浮き彫りになったものだと思います。
それは、「情報」とは、それを独占・秘匿する場合にのみお金が取れるものであって、本来「情報」そのものは、まず第一に人類の公共財であるのだと。

これも説明しだすと長くなるので、詳細は著作権論議についての項でまた詳しく書きます。


ここで強調したいのは、このことが教育そのものにもこれから大きな変化をもたらすのではないかということです。


小学校までは、読み書き計算と遊びを徹底して身につけることが無条件に大事なことと思います。
しかし中学あたりからは既成の知識の体系を教え込むことには、意味がなくなる時代になりつつあるのだと思います。


早くからこのことに気づいたフィンランドでは、一定の年齢に達したら、既存の知識の体系を教え込むという教育は、はじめからせずに、子ども自身が興味を持ったことから学習させ、教師はそのサポート役に徹するということをはじめています。


既存の知識を社会人の基礎として教えることが大事だと言っていながら、多くの高等学校での日本史の授業は平気で近代まで、明治維新以降の歴史は時間切れで教わらないなどということが日常的におきていたり、これまで常識と言われた学説が簡単にひっくり返ったりするのを見ると、そもそもそれほど既存の知識の体系にこだわる意味もないのではないかと考えられるようになってきました。

しかも、子ども自身が興味を持ったことから学習させるということが、結果的に学力も世界一になる方法であったということが実証されたのです。
(福田誠治『競争やめたら学力世界一』朝日選書 2006)


そこにある程度の情報であれば、無理に覚えなくてもいつでもどこでも手に入る時代が来たとなると、こうしたフィンランドの事例に習うでもなく、これからの時代の教育目的自体が変わってこざるとえないと思うのです。

受験のための特殊技能教育に特化してしまった日本の教育を変える契機が、ようやく訪れた気がします。

答えを覚えることではなく、調べる力、問題を発見する力、それらの人に伝える力こそが、学ぶことの根幹であるのだと。
つい最近、総合学習などでそのようなことが提起されていましたが、現場の教師がすぐには対応できない現実がありました。

でもようやくそれを実現するインフラとともに現実のものとして教育現場でそれが受け入れられようとする時代が来たのを感じます。

デジタル教科書を、ただ今のキンドルのようなかたちで捉えても意味がありません。
これらはハードの問題よりも、
どのような教育がなされるのか、
現場の教師の自由な授業プランに応じて、
子ども自身の意欲や興味関心に応じて、
それぞれにもっとも相応しい方法が、たくさん用意されている時代がやってくるのだと思います。