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甲波宿禰神社の謎 その2 武内神社編

渋川市の北方に、三つほぼ等間隔で直線状に並ぶ甲波宿禰神社の真ん中にある神社は武内神社と呼ばれ、ここは武内宿禰を祀っているとされます。


甲波宿禰神社が川の信仰だといううのもいまひとつ理解できませんが、このような土地にいきなり武内宿禰というのも、どうもその因果関係が理解しがたいものがあります。

最近、前回のブログを見てくれたというお客さんも、同じような感想を言っておられたのを聞いて、わたしもこの個人的な疑問に少し自信がもてました。

武内宿禰は、戦前は皇国史観でまつりあげられたり、お札の肖像でも使われたりして結構知名度の高い人だったようですが、今では古代史に特別の興味でもない限り、知っている人もあまり多い人物ではないかもしれません。


ウィキペディアによると

景行天皇14年(84年) - 仁徳天皇55年(367年)4月?)は、『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。
建内宿禰とも表記される。
紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。

第13代成務天皇と同年同日の生まれという。
第12代景行天皇の時に北陸・東国を視察して、蝦夷の征討を進言した。成務天皇3年に大臣となる。

神功皇后朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。第15代応神天皇の時、渡来人を率いて韓人池を造る。また、異母弟の甘美内宿禰から謀反の讒言を受けたが、探湯(くかたち)を行って濡れ衣を晴らした。仁徳天皇50年が『書紀』に現われる最後。『公卿補任』『水鏡』は同天皇55年、『帝王編年記』所引一書は同天皇78年に薨じたといい、年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。





〇 実在・非実在

 武内宿禰に関しては、300年以上生きたというその異常な長寿などの理由から、非実在の人物と一般的には言われています。

 しかし、実在の根拠が乏しいのは古代の人物ではなにも武内宿禰に限ったことではありません。
 今では、聖徳太子ですらその実在性が疑われるくらいの時代です。

 大事なのは実在の根拠が乏しいことだけではなく、非実在を証明する根拠もそれほど確かな理由があるわけではないということです。
 よって、わたしは確たる根拠があるわけでもありませんが、武内宿禰は実在した人物、もしくはそれなりのモデルの存在する人物の名前であるとの推測のもとに以下の問題整理をしてみます。


○ 長寿年齢の謎


井上ひさしの戯曲(小説?)『道元』のなかに出てくる歴代天皇を紹介するとても面白い歌があるのですが、そのなかに
  
孝昭(こうしょう)ー百十四歳

孝安-これまた長生き百三十七歳

孝霊 またまた長生き百二十八歳

孝元 嘘か真実か百十六歳

開化 眉唾ものの百十一歳

崇神 膵臓腎臓みんな丈夫で百十九歳

垂仁 葬儀屋泣かせの百四十一歳



と、どの天皇も皆、ちょっと考えられない長寿であったことが出てきます。

 武内宿禰に限らず上記のように古代の天皇も常識では考えられない長寿になっているのです。
 これにはなにか別のからくりがあるとみも良いのではないでしょうか。
 この年齢をみると無闇に長寿ということではなく、百十歳から百三十歳あたりまでの範囲の長寿となっています。

 ある人は、「神武記」によると神武の没後1年で終わっている「山陵の事」が、「すいぜい記」によると3年かかったことになっている。
  こうしたことから、紀年が3倍に延長されているので、1年が3年になることを意味しているのではなと見る考えもあります。


 もしこうしたことが現実にありうるとすると、歴代長寿天皇の場合も武内宿禰の場合も3で割れば、天皇は30~40歳、武内宿禰は考えられる長寿の90歳くらいと、みなちょうど良いくらいのもっともらしい年齢となります。



〇 武内宿禰の複数人物説

 武内宿禰の長寿は、複数の天皇を補佐した有力な人物たちを総称したようなものではないかとの見方もあります。
 そもそも時代は下って弘法大師伝説のように、全国いたるところにある弘法大師伝説は、後世の作り話も多いことと思いますが、ひとり空海が実際に訪れた場所以外に、空海の教えを広める高野聖たちの活躍が、それぞれの地域で弘法大師のものと伝わっていったこともありうることとして考えられてます。
 
 こうしたことと同様に、中央から天皇を補佐する有力な人物が地方に赴いた場合、それが著名な人物の名として語りつがれたということも十分考えられます。


 またそうした複数人物説のなかでも、さらに強烈な説として、

ヤマトタケル武内宿禰の若き姿である」http://www.geocities.jp/shoki_otoku/index.html
というものがありました。

 いくつかの歌謡のなかにみられる表現を根拠にした説なのですが、以下上記サイトからの引用です。




仁徳記には武内宿禰に対して、「たまきはる、内の朝臣(あそ)、汝(な)こそは 世の遠人(とおひと) 汝こそは 国の長人(ながひと)・・・・」

とする歌がある。これにより、内朝臣(うちのあそ=内宿禰)が一種の尊称であることが分かるので、武内宿禰の固有部分は「武(たけ)」一字と了解できる。

それは彼の弟が甘美(うまし)内宿禰として見えていることからも確認できる。すなわち武内宿禰は畿外の人からすれば、ヤマトの「武」であったと『書記』は告げているのである。




さらに、


その上、2人の誕生年が同じであることを匂わす巧妙な暗号がある。
 ヤマトタケルの誕生年は景行27年に16歳とあるので景行12年(昔流の数え年換算)と読み取れる。
 一方、武内宿禰は景行3年条に、父武雄心命(たけおごころのみこと)が9年間紀国(きのくに)に留まって生ませた子とあり、単純に足し合わせると景行12年となる。




 こんなことを知ってしまったら、この群馬に伝わる碓氷峠を越えたヤマトタケルの話やヤマトカケルを祀る上州武尊山のことなどがすぐに思いおこされます。

 蝦夷征伐の下見に東国へ来たといわれる武内宿禰と、鉄を求めて、あるいは蝦夷征伐として東国遠征にきたヤマトタケルの伝説ルートが、この武内神社のあたりで交差しているともみれます。


困ったなぁ。

こりゃ、大変な発見をしてしまった(笑)


甲波宿禰神社が、なんでこんな場所で全国でも珍しい川の信仰なのかどうも理解できない理由。
そこの真ん中にどうして忽然と武内宿禰を祀る神社が現れたのか、
その理由が一気に解けてしまったような気がしてしまうのです。


(以上書いたことは、歴史知識のない素人が目に付いた僅かの資料だけから推測したものですので、どうぞ真に受けないでください。)