~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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「正義」と「責任」  ―― 武士道とアリストテレス その1

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最後の忠臣蔵」を観てきました。
日本人に愛されてやまない時代劇「忠臣蔵」ですが、主君への忠義の面ばかりが強調されたようなドラマ仕立てはあまり好きにはなれいので、当初はあまり積極的に観る意欲はなかったのですが、配役がしっかりしていたので、家内に誘われたこともあり、これはドラマとして期待できるのではないかと観ることにしました。

 とても面白かったです。

 ふたりの下級武士を軸に描かれるものですが、一人は討ち入り後、切腹の列に加わることを許されず「真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助せよ」との使命を蔵之介から託された佐藤浩市演ずる寺坂吉右衛門
 もう一人は、役所広司の演じる討ち入り前夜に忽然と姿を消した瀬尾孫左衛門。彼は、まもなく生まれてくる内蔵助の隠し子を守り抜くという極秘の使命を、内蔵助本人から直々に受けている。

 このふたりが、しっかりした配役で支えられているのがこの映画を引き締めている最大のポイントだと感じましたが、そのこと以上に私としては、忠臣蔵という人気の時代劇を主君に対する「忠義」という側面からの見所だけでなく、「武士道」といった視点で、かなり踏み込んだいいところまで描き込んでいるところに私はとても共感を覚えました。

 忠義をつくして切腹にまでいたる武士道を、武士固有の特殊な美学としてだけ語るのではない描き方。そうした作品は期待していながらもまだ観たことはありませんでした。
 もちろん、長く庶民に愛されてきた時代劇の武士道は、遠い向こうの武士特有の世界観としてだけではなく、それがなんらかの庶民にも共通するものも見て取れるものがあるから広く受け入れられてきたのだと思うのですが、そうした点を含めて現代への大事な問いかけを含んでいるものがあるのだということを、この映画は、かなりいいところまで描けているように思えたのです。

 説明の都合上、ストーリーのネタバレ部分はご容赦ください。
 瀬尾孫左衛門は、内蔵助の忘れ形見をしっかりと育てあげて、見事に立派な商家に嫁ぐことまで成し遂げるのですが、常人の考えであれば、忘れ形見を立派に嫁がせることで、孫左衛門の使命は完了する。
 ところが武士道を貫く立場からは、それでは終わらない。

 それを武士道とは対局にあるような近松人形浄瑠璃の心中世話話を、並行したもう一本の流れとして、未練たらたらの道行き場面を人間の避けられない気持ちの流れとして作品のなかで通しています。
 この伏線がフィナーレでじわりと生きてくる。

 忘れ形見を嫁がせ、使命を果たし終えたとき、ともに支え合ってきた安田成美演じる「ゆう」から、これからはふたりで自由に生きようと誘われる。
 ハリウッド映画ならば、ここで二人がひしと抱き合ってハッピーエンドで誰もが納得。
 たしかに、そこで完結しても十分いいだろうというところまで作品はきちんと描ききっています。

 なぜ、武士であることがそこで終わらせることを許さなかったのか。
 主君への忠義は、死ぬことでしか示せないからなのか?
 先立った同志の後を追うことが、これでやっと願いを果たせるからなのか?

 私が時代劇の武士道を観るときに面白くないと感じることが多かったのは、そうした理由でのみ武士道を描くことが多く感じられるからです。
 たしかに現実に多くの武士は、こうした理由や武士としての体面を守るだけであったり、しぶしぶそうするしかないので引き受けているような場合も多かったと思います。

 主君に殉ずる「追腹(おいばら)」や職務上の責任や義理を通すための「詰腹(つめばら)」、無念のあまり行う「無念腹」なども、時代が下るほど形式化していく面もありました。
 しかし、それでは、武士道が目指しているものを何も語られないことになってしまうのではないかと感じてしまうので、それらが本来目指していた精神がなんだったのかをもっとしっかりと見る必要があると思います。

 そこでタイムリーに登場するのが、ちょっと飛びますが、今年ベストセラーになったマイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』(早川書房)です。

 武士の重んずる大義、忠義を守るとか、道徳、倫理といった「正義」の価値観は、
どのような行為をどの程度成せば守れたということが出来、さらにそれが「信」に値するといえるのか。
 こうしたことが、マイケル・サンデルの「正義」の論議のなかでも語られています。

 ここ数十年の間、世界の多くを支配してきた価値観は、恣意をはさまずに市場の論理(「公正」な競争)にまかせれば、より合理的なものが自然に生き残る(淘汰)される。
 あるいは多数の利益にかなったことを実現することこそが、最大幸福最小不幸実現の大前提になりうるといった考え方が支配的でした。

 ところが、東西の冷戦時代が終わり、多極的価値観が交錯する時代になると、社会全体で圧倒的多数に支持される論理というものが少なくなるばかりか、少数派とはいっても容易に無視、抹殺しがたいことがらが多く世の中にみられるようになってきました。

 サンデルが引きあいにだす例でいえば、ひとりの人の命を犠牲にすれば5人の命が助けられるようなジレンマに立たされる場面に遭遇した場合、救急医療の現場に一度に手に追えない5人の患者が担ぎ込まれてしまった場合、難破船の救命ボートに取り残された5人がいかに生き延びようとするか、といったようば場面で人は究極の選択、価値や倫理を問われる選択を強いられることになる。

 それを様々な具体例をあげてハーバードの学生たちと議論しながら講義を進めていくところこそが、サンデルのギリシャ哲学流ディベート弁証法の真骨頂なのですが、その神髄をリアルに再現してある『ハーバード白熱教室講義録 上・下』よりも、より難しい『これからの「正義」の話をしよう』の方が売れているというのもメディアと流通のしくみからくる理解しがたい現象。これは余談で、別のところでまたあらためて書きます。

 大まかには、両書とも話の流れは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進といった三つの視点を歴史的に考証しています。
 第一は、ベンサムに代表される功利主義に基づいた最大幸福原理。
 第二は、個人の選択の自由と所有権などを不可侵のものとして擁護するリバタリアニズム自由至上主義)などから・・・

 ところが、なぜか最近になって多くの人の口から、これらの慣れ親しんだ多数決原理、議会主義などを通じた幸福の最大化、個人の自由、所有権の尊重などの考え方に対して、多くの人が直感的にそれだけでは説明しきれない美徳の論理、人間ならではの目的意識的、恣意的な努力の必要性が説かれるようになってきました。

 しかしそれは恣意的なものであるがために、その価値観は誰が決めたものか、だれによってなされるのもかといいった過去の苦い経験に依拠した反省と慎重さがつきまとうものです。
 私自身もこうしたことを語るとき、宗教的保守派と同じことを言っているにすぎないのではないか、あるいはそうした人たちを擁護する言説になってしまうのではないかとの危惧を感じずにはいられません。

 でも、これこそが、多くの人が直面している社会の問題に踏み込むためには立ち入らなければならない問題なのだとサンデルは強調します。
 そしてその代表として登場するのがアリストテレスです。

 政治の目的は、多数派の意向を満たすことにあるという概念を、アリストテレスは否定します。
                             
                            (つづく)
 
                                    以上は、私の個人ブログ「かみつけ岩坊の雑記帖」より改題転載