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日本の原発、どこで間違えたのか

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内橋克人『日本の原発、どこで間違えたのか』 朝日新聞出版
 
今から30年ほど前に刊行された本を緊急復刊されたものです。
 
昔から原発の危険性や電力会社の事故隠しの体質など一部の人からは
一貫して指摘され続けていました。
しかし、残念ながらそうした報道が、多少広がることがあったとしても、
今回のような事故が起きなければ、おそらく日本の原発推進政策を
大きく転換させるなどということは、出来なかったのではないでしょうか。
 
それどころか、これだけの事故が起きてもなお、
CO2を排出しないクリーンなエネルギーとして、コストの安いエネルギーとして、
自然エネルギーだけでは代替不可能であるとして、
安全性を高める努力を重ねることで廃止の選択はする必要ないとの流れは消えません。
 
それでも、10年、20年前と今の世の中の原発に対する世論は大きく変わりました。
そんなときに、本書のように30年前に言われていたことを振り返ると、
一貫して変わらない原発推進政策が、どのような性格のものであったのか、
その根深い背景がより一層深く理解できます。
 
オイルショックで脱化石エネルギーが叫ばれる前から、日本の戦後復興と脱共産化のためにも原子力開発は不可欠の政策課題として位置づけられていたようです。
その中心人物として中曽根元首相や正力松太郎がいました。

昭和29年初め、当時開会中だった国会に突然、予算修正案が上程された。
原子力研究に当てるための予算を認めるべし、というのだ。
そしてついに2億6千万円の原子力予算の上積みを衆議院で可決成立させてしまった。
この予算が日本の原子力開発のすべてのはじまりせあると、事情通は言う。
 
 
また東京電力の社内に原子力発電専門の部署が誕生したのが、昭和30年11月1日のことだった。
まだ専門技術者はほとんどいないといってよい環境で、3人の東電社員が呼び集められ、ひとつの小さな部屋があてがわれた。
その3人のうちの一人が、池亀亮(現在、福島第一原子力発電所長=55歳)。
3人は手分けして膨大な資料を読み漁り、海外に留学したりして学んでいった。
 
原子力開発には、物理、化学、電気、原子力などさまざまな専門家を動員してなされるものですが、当時のスタート時点では電気分野の専門家たちだけでそれを担ったともいえる。
とすると、今の原子力屋のメンバーは、これ以降に日本の原子力政策とともに育った人たちが大半で、他の基礎科学から継続した蓄積は歴史的にみてもまだかなり浅い。
 
アメリカに留学・視察に訪れた日本の技術者たちは、原子炉がメルトダウンしたり、冷却喪失などの場合を実際に想定した実験がアメリカの広大な砂漠で行われていることを見て、これはとても日本で実現できる技術ではないと痛感させられている。
 
にもかかわらず、国策として原子力の平和利用をかかげて、石油に代わるエネルギーを得ることは、まだ自然エネルギーや豊富な天然ガス資源などがまだ知られていない時代にあっては、それを避けることは難しい選択であったと言えるかもしれない。
 
もういちど、この30年の日本の原子力政策の歴史を冷静に振り返ってみよう。
 
確かにこのたびの事故で、原子力に対する見方は劇的に変わりました。

これまで異端扱いされていたような広瀬隆小出裕章が、国会や議員会館へ呼ばれ講演したり参考人として意見を求められるなるなど誰が想像したでしょうか。
 
しかし、その実態をよく見ると、原子力政策の抜本的見直しに世論全体が変わったわけではありません。
夏の電力不足に対する考え方、今後の原子力のあり方など、旧来の考え方はまだまだ根深く残っています。
 
残念ながら、30年以上、今の原子力開発に反対してきた運動も、多少その反対戦略の見直しがされたとしても、CO2削減の世界的な流れのなかでそれを押しとどめることは、悲しいかな今回の事故が無かったならば、まだ敗北の歴史を重ねていただけだったのではないかと思われます。
 
だからこそ、こんな事故が起きたのだから原発はやめて当然などとは安易に決める前にに、この30年の歴史のなかで、それを推し進めてきた現実の力、勢力とそれによって被害を受け続けてきた人たちの姿を本書でしっかりと確認する意義があるのではないかと思います。