~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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草の者の道

先に里人に見えぬ道について、サンカ、山伏、マタギなどをとりあげて話しましたが、
もうひとつ大事な役者が抜けてました。
それは忍び、忍者です。
これは、文字どおり道なき道をかけるのですが、
上州、信州の間では、伊賀、甲賀に劣らず、真田の忍びが活躍した地として知られてます。

この真田の忍びのことは草(くさ)と呼び、
池波正太郎真田太平記などで草の者として広く知れています。

この草の者については、甲賀・伊賀の忍者に比べて史実を伝える資料が比較的豊富に残っていて、
その末裔といわれる人々もおられるので、
得てして時代劇などで誇張してとられがちな忍びの姿を、リアルにとらえることができます。

基本技術、装備としての変装、速歩、跳躍、鉤縄、三尺手ぬぐい、薬、兵糧丸の常備など、
中之条町の歴史資料館で そのいくつかを実際に見ることもできます。

この草の者は、武田信玄のもとの忍びの養成隊長の立場にあった出浦対馬守幸久が、
武田氏滅亡のびち、真田氏に招かれ服属し、
のちに吾妻の岩櫃城代になっているのです。
そのため、現中之条町周辺の岩櫃城、高山城あたりから、
優れた草の者が多く生まれてます。

また、この岩櫃城の地理的位置が、
真田氏の上田から沼田にかけての横に長い領地のちょうど真ん中に位置しており、
当時の情報伝達の中枢であたこともうかがわせます。

この情報伝達の役を担っていた草の者の活躍する姿が、
真田太平記のなかにしばしば出てくるのですが、
夜の明けるまでのうちに、岩櫃城から上田城まで、あるいは名胡桃城や沼田城まで
誰にも知られない道を駆け抜けるのです。

この姿をイメージして以来、私はずっといつかやってみたいあることを考えていました。
それは、地元の名胡桃城のある月夜野から信州上田の間を
地図上に定規で一直線の線を引き、
その真っ直ぐの線の上を夜がけで歩き抜くのです。

これこそ道なき道、
であるばかりか、その線上にあった障害物は、
何であれ、乗り越えていかなければならない。

やっかいなのは、民家、農家の敷地などをまたぐとき。
線上に家などがぶつかった場合は、
ちょっとごめんなさいよ、と茶の間や寝室なども横切ることも余儀なくされる。
もちろん事情をゆっくり説明している間などないので、
泥棒と間違えられることを覚悟して走り去るか、
頭のおかしいヤツが通ったと思われるか、
その場の判断にまかせられる。

これは、その夜がけの服装に大きく左右されるものでもある。
山を真っ直ぐ突っ切るには、裏にスパイクのついた営林用地下足袋がもっとも優れているが、
これは脱いだり履いたりを素早くすることができない。
この場合は、土足で部屋を突っ切り、ばれたら急いで逃げるしかない。

この地図上に真っ直ぐな線を引き、強引に横切るということは
残念ながら私の独創ではなく、大先輩がいる。
それは、東京電力の送電線工事をやっている人たちです。
山をみると、ほとんど地形にこだわらず、一直線に道を切り開き、
しかも高速道路の工事のように、地形はほとんどいじることはなく、
鉄塔下の樹木を切り払う程度で真っ直ぐに突き進んでいる。
これに気づいたときは、負けた、と思った。

でもこちらは、ひとりで駆け抜けるので
ひとりの人間のなす事としては負けないだろう、と気をとりなおす。

草の者が駆け抜けたのは、あくまでも人目につかずに近い道を選んでいたのであろうが、
まずは、夜がけのトレーニングとして、
私はこの強引な方法を一度やってみたいと思っている。


こうした経験を積んだ上の話しとして、
次回に未来のひとの歩く道について書きます。