~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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コミュニケーションの質

 先日片品で開かれた「三人委員会哲学塾」のフォーラムではいろいろなことを考えさせられました。
そのなかのひとつが、コミュニケーションのあり方についてです。

 今回のフォーラムは、安易に結論を出すことよりも、時間をかけて一度、ものごとをじっくり掘り下げる対話のできる場を設けようというのが、その趣旨のひとつでしたが、三日間を通して、その方法が成功したとは言いがたい面もありますが、実に様々な分野で活躍されている人々の発言があり、群馬も問題が多いとはいえ、他県にくらべたらこうした地域の活動はとても活発なほうであることがわかりました。
 しかし、なかには妙に言葉多く語っていながら何を伝えようとしているのか理解できない発言もあり(特に学術的専門にかかわっている人)、コミュニケーションそのものの質についてもちょっと考えてしまいました。

 私自身の発言でも、片品が人を惹きつける魅力のことを、まず第一に、コミュニケーション時間の絶対量の多さがそれを支えていることと、それは明日は仕事があるから、とか今日はもう遅いからなどといわずトコトン語る体力のある人の数がよそよりも少しだけ多いことによるのではないかということを話ましたが、そのトコトン話すことの内容も、どうやらちょっとだけ何かが違うと思えるところがあります。

 このことは普段の酒飲み話のときもなんとなく感じていることですが、今あらためて考えてみると、その特徴が少し見えてきたような気がします。

 それは、話の内容を「わたし」とか「わたしたち」といった主語をともなって語っているかどうかの差なのではないだろうかということです。

 よく、長い話を聞いてて妙に疲れる人と、ただじっと耳をかたむけているだけで楽しい人がいますが、その疲れる人というのは、共通して、地域のこと、行政のこと、政府のことなど話す場合、あくまでも世間のこととして問題を指摘提起してくる。
それに対してこちらがじっと耳を傾けていたくなるひとの話というのは、常に自分の貴重な体験の話であったりして、その主語が「わたし」や「わたしたち」で語られる内容がほとんどであることに気づく。
 そして、優れた人ほどそのなかでも「わたし(我)」の部分の話が少なく、「わたしたち」の視点で語る内容が増えてくる。

 片品には、そんな人の比率が少しばかり、他所よりも多いのではないだろうかと感じた。よく、魅力のある群馬の山村として、上野村の話題もでますが、上野村の場合、地域の助け合い、ささえ合いの関係が優れているのを感じますが、住民自身が自主的に何かを創造していくエネルギーに関しては、片品村のほうが勝っているような印象が感じられます。

 その大きな要因が、住民の間でのこのコミュニケーションの絶対量の多さとその「質」にかかわることで、以前に書いた最も求められる「自治」の意識なんかよりも、もっと前提にある大事な資質のような気がしました。

 これは、決して客観的に広く村全体を見て総括した印象ではなく、わたしがごく一部で個人的にかかわったひとたちの印象から感じていることにすぎないのですが、少なくとも、他所の地域で、村の全世帯を訪問して話しをしようなどということをほんとに実践する人、この村のことが知りたいから案内して欲しいというとき、有名なところを網羅してまわってくれというのではなく、村の端から端まで全部案内して欲しい、などというひとは他ではいないのではないだろうか。

 選挙の票目当てなどでなく、そうした人がひとり、地域にいるだけで、まわりのコミュニケーションの質は格段に違ってくるのを感じました。