~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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そうすることしか出来なかった(再び)

毎年、この時期、広島・長崎の原爆と終戦記念日だけでなく、日航御巣鷹墜落事故など、過去を振り返る話題がひしめきたくさんのことを考えさせられます。

そんななかで今年は、久間元防衛庁長官の仕方がない発言の衝撃がありました。
このニュースがとんだときに本来はすぐに書きたかったことなのですが、時期を逸してしまいました。それでも、長崎原爆慰霊の日に当然この発言はあちこちで話題にのぼったこともあり、今からでも多少遅ればせではありますがやはり書いておきたいと思い、急きょ割り込み日記。

歴史を振り返るとき、私は「そうすることしか出来なかった」現実をしっかりとみることがとても大事なことだと思っています。
このことは以前にも書いたことがあったのですが、いまひとつ伝えきれなかったような気がしたました。
この表現、久間発言の「仕方がない」と似た印象をもたれそうで、
とても説明もしにくいのですが、
私にとってはとても大事なことなので、先を考えず踏み込んでみたい。

これを執拗に取り上げるもうひとつの理由は、
歴史に「もしも」は許されない、
というよく使われる言葉の意味が、
歴史学者も含めて多くの人にまだ理解されていないのではないかと感じるからです。

大好きな吉村昭歴史小説などを読むとよく感じるのですが、
歴史の教科書などで記述されているひとつの出来事の裏には、
ひとつの判断にも、行動にも様々な背景があるものです。
立派な人物でも、苦汁の決断を迫られること、
些細な偶然と思われるような出来事に大局が左右されていまうこと、
その人の判断にはそんな生い立ちからくる背景があったのかなどと知らされる例、
そんな様々な要因の作用するなかで、多くの人びとは
不本意、不条理な環境に投げ込まれながらそのなかで生きていくものです。

そんな不条理の積み重ねのなかで、戦争やひとつの事故というものは起きているものです。
戦争犯罪や戦犯、あるいは企業犯罪、国家犯罪を擁護する気はまったくありませんが、
いつの時代でもそうした誤った道を選択した人自身の内部には、多くの場合、他の選択肢が無かったわけではなく、またそうした人の周りには常に他の選択肢を薦める人間もいたものだと思います。
 そうした他の道があったにもかかわらず、
歴史の事実というものはひとつの冷厳な事実をつきつけているのです。

 その冷厳な事実の裏には、たまたまのその当事者の健康上の理由や天候などの要因など、
偶然ともいえるような要因もすべて含めた事実の積み重ねがあり、
それらあらゆる要因の積み重ねの上に歴史は築かれているのだと思います。

 私は、これを偶然の積み重ねであるとは思いません。

 ひとつの結果をもたらすことのできる優れた組織や企業などの例を見ると、
あらゆる可能性を考慮して、ほんのコンマ数パーセントの確立でも少しでも引き上げる血の滲むような努力を積み重ねているものです。
 このコンマ数パーセントの確率を変える努力というのが、
決定的な差として歴史に現れてくるものだと思います。

 でもこのことは本題ではありません。
 強調したいのは、歴史のひとつの結果をもたらす背景には、必ず複数の異なる価値観の人びとの間の攻防の結果になされたという事実があるということです。
 で、そこには歴然とした力関係があったということこそ、
しっかり見なければならないことだと思うのです。

 いつの時代の不正事実でも、その周囲にそれを押しとどめようとしたひと、反対したひとはいたものですが、歴史の事実は、それらの人びとが少数にとどまっていたこと、多くのひとに支持されるには至らなかったこと、相手を説得することは出来なかったことなどを示しているのを忘れてはなりません。

 歴史のひとつの事実の裏には「そうすることしか出来なかった」人びとがいるということを、多層的にみるまなざしが欠けていると、単純に過去の史実を断罪、批判するだけで問題が解決すると、間違った判断をしてしまうことになると思います。

 そのうえで、もっと強調したいのは、そうした過去と同じ構図が、私の目の前やあなたの目の前で常に繰り広がれているということです。
 押しとどめようとしたひと、反対したひとたちとともに、言うことができなかったひとなど、それぞれに様々な事情をかかえてそういう結果になっているものです。
 その一歩の難しさとその一歩に挑む価値を見据えることこそ、歴史を見るうえで忘れてはならないことなのではないかと思います。

 あらゆる偶然的要素も含めて、「そうすることしか出来なかった」事実があり、その事実をしっかりと見据えることによってこそ、「だからこそ」という次の大切な一歩を踏み出す動機が生まれるのではないかと思います。
 この意思のもとでは、どんな悲惨な事実であっても、どんな汚点であっても、どんな失態であっても、事実を隠すという動機は生まれません。事実を詳細、具体的に知ることによってこそ、だからこそどうすればよいかがわかるからです。

 久間発言の「仕方が無い」は、ただ現状容認の発言であり、その言葉から「だからこそ」という次の行動につながる意思はまったくあらわれていません。

 うまく表現できたかわかりませんが、なんとか伝えたいと思い続けていることのひとつです。