~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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人類の偉大なる「叡智」か、「方便」か

 長い間、内山節さんの哲学を追いながら、マイミクの三四郎さんとも共有していたやっかいなテーマ、使用価値と交換価値の矛盾と商品・貨幣の問題を、先日の片品でのフォーラムに参加しているうちにある決定的な表現がひとつひらめきました。

 それは、わたしは今まで価値や使用価値の問題を、過去の経済理論(労働価値説や需要・供給バランス)や差異の哲学などからばかり理論づけてばかり考えていましたが、それらの表現とはまったくことなる単純な表現でこの長年悩ませられ続けたやっかいなテーマをすっきりと説明できることに気づいたことです。

 これは、わたしにとっては感動的な発見なのですが、
どうか、なんだそんなことか、なんて言わないでください。
それは、およそ以下のようなことです。

これまでの人類社会の歴史は、
交換できないもの、それぞれ異なる固有の個別な価値を、いかに交換するか。
交換しにくいそれぞれ固有のものを、いかに交換しやすくするか。
その進歩の歴史であり、人間社会のあらゆる営みはこの進化の過程として、
叡智を絞ってきたといえます。

その叡智の最たるものが貨幣(紙幣)であり、お金です。

で、その行き着いた先が、生産などでモノを生みだすことよりも、交換することを主眼においたグローバル資本主義の金融投機経済であり、もうひとつ新たにそこに、あらゆるものを同質の記号におきかえることのできるデジタル社会が加わりました。

この、価値の異なる様々なものが、どうして同質のものとして交換できるかということは、いろいろな経済理論のどれが正しいかを延々つきつめることよりも、
これこそ人類が編み出した「偉大なる方便」であると理解したほうが、とてもわかりやすいのではないかということです。

はじめのうちは、人類の「偉大なる知恵」と思っていましたが、考えれば考えるほど、これは人類の「偉大なる方便」であると思えてなりません。

この言葉に気づいたこと事態、わたしにとっては大変な感動ものなのですが、
本題は、さらにその先にあります。

で、この交換しにくいものを交換しやすくすることの行き着いた先の
グローバル金融資本主義の時代になって、
さらにその先にあるものが見えてきたのではないかということです。

それは、これまでの歴史は、ただひたすら交換しにくいものを交換しやすくする方向にばかり進化してきましたが、最近になってようやく、
交換しやすいものを、交換しにくくすることで価値は増すというもうひとつのあたりまえの原則が見えてきたことです。

 これまでの歴史は一貫して、交換しにくいものを交換しやすくする方向の一方向にのみ進化してきたといえますが、その一方向だけの歴史進化の経験で、その価値を「量」によってしか表現できないという極端な姿にまでなってしまい、本来のそのもの固有の価値、使用価値、主観的価値というものが限りなく顧みられなくなってしまってきた歴史があります。

その固有の使用価値の復権や再評価の方法は、様々なかたちで語られてきてはいましたが、どうもなっとくの出来る説明には出会ったことがありませんでした。
それがまさに、交換しにくくすることによってこそ、価値の復権が得られるのではないかということです。

 以前ふれた尾瀬国立公園環境保護の問題も、「より多く」の人びとに尾瀬の自然を見てもらうことに環境問題解決の糸口を求めることよりも、尾瀬という特別な自然環境を保護のためだけでなく、一定の環境に対する知識・理解を得ない限り入山させないという入りにくさを儲けることで、入山者数は減っても、より多くのひとにそのほんとうの価値を確実に伝えることが可能になり、その固有の真の姿をより付加価値を多くして、地元の経済にも好影響を及ぼすことが可能であるということです。
 また、はじめあから「より多くの人」を第一目標にすることではなく、「より多くのこと」「より確かなこと」の理解を目標にしたほうが、尾瀬のためにも、地元のためにも良いのではないかということです。

 また地域振興の視点からも、より多くのひとに来てもらう安易な観光依存体質よりも、その土地固有の姿を、地元のひとと十分なコミュニケーションの場をもうけることで、絶対に他の地では体験できない感動を得るものにすることが出来るのだと思います。
 もちろんそれを成功させるには、たくさんの失われてしまったものを取り戻す作業をまずしなければなりませんが、それも他所から企業や名物品を持ってくることによってではなく、その土地にあるもののなかから財産を見出すことがなによりも大事です。

 結論を急ぐあまり、どうしても観光資源はどこにあるのかといった発想になりがちですが、何よりも大事なのは、その土地に固有の生活、その土地固有の時間の流れというものを知り、感じ取ることです。それを抜きになにか名産品を開発しても、そこに固有の価値は育ちません。

 このその土地固有の生活、時間の流れこそ、これまで社会が拡大する過程で自由な交換を妨げるものとして、一貫して排除され続けてきたものであり、自由な交換を急ぐことさえしなければ、その固有の価値はいかんなく発揮できる性格のものであったと思います。

 交換しにくいものを安易に交換しやすくしない社会、それがこれからの時代では可能な社会が出来ると私は思うのです。

 この間何度か取りあげてきた「ぐんま地域創造フォーラム 三人委員会哲学塾」で、地域とはなにか、ローカルに生きるとはどういうことかが問われていましたが、
地域の固有の交換しにくい固有のモノ、固有の価値を、安易にそれが交換しにくいからといって全国レベルで交換しやすいもの取り替えて、固有のもの、固有の価値を喪失してきたこれまでの歴史に対して、
交換しにくいまま、その価値を維持し安易に交換しやすくしないことで、より高価値なローカル性を築くことができることをようやく私たちは気づきだしたのではないでしょうか。

 私たちは、その本来の多様な価値を表現するために、

まず第一に、安易に円やドルに交換されない多様な種類のモノサシを維持して持つこと。

第二に、これまで、交換のための必須条件と思われた「量」に換算することを経ないで、
固有な質のまま、
主観的な価値のまま、
偶然的な条件のまま、
それをひとつの価値として、あるいはひとつの「商品」として
この社会に存在させることが、大事であること。

これがこれからの時代の大きな流れとして求められ、
なおかつ可能な時代になってきていることを感じます。

社会科学的な認識で得られる「個人」という概念は
「文学的表象」にまで高められなければならない
と、戦時中の哲学者、戸坂潤は言いましたが、
ようやく時代がこの言葉を受け入れるようになってきたのではないでしょうか。

さらに言い換えれば。
経済が貨幣によってしか語れない時代から
経済を人と人との関係に取り戻す時代がやってくるとも言えるでしょうか。