之を語りて平地人を戦慄せしめよ
遠藤ケイ 著 『山界異聞 おこぜの空耳』
かや書房 (1991/10)定価 本体1,748円+税
深山分け入っていくと、鬱蒼とした原生林が忽然と開け、その一か所だけ、まるで箒で掃き清められでもしたような不可思議な空間に遭遇することがある。歯だ類や蔓が、他の植物を凌駕して大地を覆いつくしている原生林にあって、そこだけ下草も生えていず、柴木一本落ちていない。
ときに、落ち葉がゆっくりと渦を巻くように宙に舞っているのを目撃する者がある。まるで官能に身をまかせて妖しい気に舞う蝶を想起させる幻想的な光景に一瞬、魂を奪われるが、やがてジワジワと言い知れぬ恐怖心が湧き上がってくる。
風はない。 (以下略)
以上、「第三話 山の神の遊び場」冒頭部分の引用です。
遠藤ケイという人の詳しくを知っていたわけではありませんが、すぐに作家としてデビューして問題ない見事な文章です。
遠藤ケイさんは、自らの山里の暮しの様子や、山間部の民俗、全国様々な職人の仕事の姿、道具の魅力などを取材した本を多数書いていますが、ここに紹介する本はそれらとは趣の異なるちょっと異色の本です。
ぜひ遠藤ファンの多くに読んでもらいたい本でありながら、出版社がややマイナーなばかりに、書店の店頭ではなかなか目にすることのない本です。
という私の蔵書も長い間、部屋のどこかに埋れたままになっており、念願のこの本の紹介にあたっては、みつからない本はとうとうあきらめ再度購入しなおした本を見ながら今書いています。
表紙とはじめのとびらページで柳田国男の遠野物語の言葉を引用しています。
「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」
この引用から、本書が昭和の遠野物語のような性格を持たせたものであることがうかがえます。
もちろん、本書の場合は柳田國男のような長期の取材にもとづいた学術的価値のあるようなものではなく、遠藤ケイさんの創作も多いストーリーかと思いますが、このような山界異聞は、戦後になってからはきわめて貴重になってしまったものであり、平成にいたっては、創作そのものも、もう極めて困難な時代になってしまったようにも思え、直に聞くことの出来た話を元にしているとすれば、最後の山界異聞となってしまったものかもしれません。
本書は6つの独立した話で構成されていますが、それぞれ、わかりにくい山言葉などにはきちんと注釈がつけられて、話中に出てくる写真も違和感のない、とてもマッチしたものが使われています。
第一話 天狗の腰かけ松の怪
第二話 オコジョの祟り
第三話 山の神の遊び場
第四話 山吹沢の怪魚
第五話 浜平風聞
第六話 おこぜの空耳
このタイトルと冒頭の引用からだけからも、この本の世界は想像がつくのではないでしょうか。
ここで、あらすじの紹介やネタあかしの必要はないかと思います。
ただ、本書の遠藤ケイさんの世界を見ることによって、それまで職人の仕事や道具の世界、民俗の様子などの取材のもっているもうひとつの価値を、わたしたちは知ることができるような気がします。
それは、人が自然や世界とのかかわり方、あるいはその関係というものを、口承の物語という姿を通じてこそ表現できるものがなにかあるのではないかということです。
このことは、現代の合理的思考の徹底した社会では、ただの不合理な文学の世界としか見えないかもしれませんが、たんなるモノとの関係ではなく、ひとつのノコギリや斧の形、姿のなかに、一本の木の姿の中に、そのまま技術の蓄積や時間の流れ、それにかかわった人の記憶のようなものが凝縮されており、その関係が無意識に私たちに感じさせる価値というものが、かつては確かなものとして存在していたこと。
これは、いまでは説明することが極めて難しい時代になってしまいました。
今でも、ひとつのデジタル製品、携帯電話やパソコンを使いこなすことは、限りないその使用者との関係を深く刻み込まれるものですが、そこに何万回という日常利用の関係があっても、かつての一本の鉈や鎌の使用で積み重ねられた道具の記憶とは、根本的に異なるものがあります。
このあたりのことを私はうまく説明することができませんが、ちょっと別の角度から1年の半分あまりを群馬県の上野村に暮らす哲学者の内山節さんが、人間と動物との関係が変わったのは1965年ころを境にしているのではないだろうかといった所感を次のように語っています。
釣った魚を人間に化けたキツネにだまし取られたり、帰宅の途中に荷物を取られたりする話しが多かったけれど、かつての山村では、キツネにだまされた話は特別なものではなく、どちらかといえば日常のありふれた出来事のひとつであった。
ところが、村人たちの話を聞いていると、1965年ころを境にして、どこに行っても、人間がキツネにだまされなくなってしまうのである。このころから、「昔だまされた」という話に変わり、、新しくだまされたということがなくなる。
私はこのことが不思議でならなかった。とすると、1965年ころを境にして、キツネが人間をだまさなくなったのであろうか。それとも人間がキツネにだまされなくなったのであろうか。はっきりしていることは、この時期を境にして、キツネが人間をだます生き物ではなく、単なる自然の動物になったことである。キツネと動物の新しい物語が生まれなくなった。キツネが人間の意識のなかに入ってくる「隣人」から、動物の一種類にすぎなくなた。
この変化はなぜおこったのか。しかも、それはキツネだけに限られたことではなかったのである。かつて人々はさまざまな物語を編み出しながら暮らしていた。山の神や水神様、庚申様といた神々と人間の物語。動物たちと人間の物語。そそりたつ大木もときに物語の主人公であった。そして村の物語。祖父母の物語。実にいろいろなものが物語の主人公になり、語り継がれていた。この世界が、1965年ころを境にして、急速に消えていくのである。
とすると、この時期に日本人の人々の精神や精神文化に大きな変化がおきたことにはならないだろうか。自然と人間や、人間と人間が結び合うとき、そこに物語が生まれ、その物語を媒介のひとつにしながら人間たちが存在していた時代が終わり、自然も人間も、自分にとっては客観的な他者になっていく時代が、このころからはじまったのではないだろうか。
内山 節 著 『「里」という思想』 新潮選書 (2005/09)
もしかすると、単なるノスタリジアではなく、これから何十年、何百年として取り戻していかなければならない私たちの大事な感覚というものを、本書は昭和の最期のストーリーとして見せているのではないかと思うのです。
願はくは之を語り現代のデジタル人間を戦慄せしめよ
かや書房 (1991/10)定価 本体1,748円+税
深山分け入っていくと、鬱蒼とした原生林が忽然と開け、その一か所だけ、まるで箒で掃き清められでもしたような不可思議な空間に遭遇することがある。歯だ類や蔓が、他の植物を凌駕して大地を覆いつくしている原生林にあって、そこだけ下草も生えていず、柴木一本落ちていない。
ときに、落ち葉がゆっくりと渦を巻くように宙に舞っているのを目撃する者がある。まるで官能に身をまかせて妖しい気に舞う蝶を想起させる幻想的な光景に一瞬、魂を奪われるが、やがてジワジワと言い知れぬ恐怖心が湧き上がってくる。
風はない。 (以下略)
以上、「第三話 山の神の遊び場」冒頭部分の引用です。
遠藤ケイという人の詳しくを知っていたわけではありませんが、すぐに作家としてデビューして問題ない見事な文章です。
遠藤ケイさんは、自らの山里の暮しの様子や、山間部の民俗、全国様々な職人の仕事の姿、道具の魅力などを取材した本を多数書いていますが、ここに紹介する本はそれらとは趣の異なるちょっと異色の本です。
ぜひ遠藤ファンの多くに読んでもらいたい本でありながら、出版社がややマイナーなばかりに、書店の店頭ではなかなか目にすることのない本です。
という私の蔵書も長い間、部屋のどこかに埋れたままになっており、念願のこの本の紹介にあたっては、みつからない本はとうとうあきらめ再度購入しなおした本を見ながら今書いています。
表紙とはじめのとびらページで柳田国男の遠野物語の言葉を引用しています。
「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」
この引用から、本書が昭和の遠野物語のような性格を持たせたものであることがうかがえます。
もちろん、本書の場合は柳田國男のような長期の取材にもとづいた学術的価値のあるようなものではなく、遠藤ケイさんの創作も多いストーリーかと思いますが、このような山界異聞は、戦後になってからはきわめて貴重になってしまったものであり、平成にいたっては、創作そのものも、もう極めて困難な時代になってしまったようにも思え、直に聞くことの出来た話を元にしているとすれば、最後の山界異聞となってしまったものかもしれません。
本書は6つの独立した話で構成されていますが、それぞれ、わかりにくい山言葉などにはきちんと注釈がつけられて、話中に出てくる写真も違和感のない、とてもマッチしたものが使われています。
第一話 天狗の腰かけ松の怪
第二話 オコジョの祟り
第三話 山の神の遊び場
第四話 山吹沢の怪魚
第五話 浜平風聞
第六話 おこぜの空耳
このタイトルと冒頭の引用からだけからも、この本の世界は想像がつくのではないでしょうか。
ここで、あらすじの紹介やネタあかしの必要はないかと思います。
ただ、本書の遠藤ケイさんの世界を見ることによって、それまで職人の仕事や道具の世界、民俗の様子などの取材のもっているもうひとつの価値を、わたしたちは知ることができるような気がします。
それは、人が自然や世界とのかかわり方、あるいはその関係というものを、口承の物語という姿を通じてこそ表現できるものがなにかあるのではないかということです。
このことは、現代の合理的思考の徹底した社会では、ただの不合理な文学の世界としか見えないかもしれませんが、たんなるモノとの関係ではなく、ひとつのノコギリや斧の形、姿のなかに、一本の木の姿の中に、そのまま技術の蓄積や時間の流れ、それにかかわった人の記憶のようなものが凝縮されており、その関係が無意識に私たちに感じさせる価値というものが、かつては確かなものとして存在していたこと。
これは、いまでは説明することが極めて難しい時代になってしまいました。
今でも、ひとつのデジタル製品、携帯電話やパソコンを使いこなすことは、限りないその使用者との関係を深く刻み込まれるものですが、そこに何万回という日常利用の関係があっても、かつての一本の鉈や鎌の使用で積み重ねられた道具の記憶とは、根本的に異なるものがあります。
このあたりのことを私はうまく説明することができませんが、ちょっと別の角度から1年の半分あまりを群馬県の上野村に暮らす哲学者の内山節さんが、人間と動物との関係が変わったのは1965年ころを境にしているのではないだろうかといった所感を次のように語っています。
釣った魚を人間に化けたキツネにだまし取られたり、帰宅の途中に荷物を取られたりする話しが多かったけれど、かつての山村では、キツネにだまされた話は特別なものではなく、どちらかといえば日常のありふれた出来事のひとつであった。
ところが、村人たちの話を聞いていると、1965年ころを境にして、どこに行っても、人間がキツネにだまされなくなってしまうのである。このころから、「昔だまされた」という話に変わり、、新しくだまされたということがなくなる。
私はこのことが不思議でならなかった。とすると、1965年ころを境にして、キツネが人間をだまさなくなったのであろうか。それとも人間がキツネにだまされなくなったのであろうか。はっきりしていることは、この時期を境にして、キツネが人間をだます生き物ではなく、単なる自然の動物になったことである。キツネと動物の新しい物語が生まれなくなった。キツネが人間の意識のなかに入ってくる「隣人」から、動物の一種類にすぎなくなた。
この変化はなぜおこったのか。しかも、それはキツネだけに限られたことではなかったのである。かつて人々はさまざまな物語を編み出しながら暮らしていた。山の神や水神様、庚申様といた神々と人間の物語。動物たちと人間の物語。そそりたつ大木もときに物語の主人公であった。そして村の物語。祖父母の物語。実にいろいろなものが物語の主人公になり、語り継がれていた。この世界が、1965年ころを境にして、急速に消えていくのである。
とすると、この時期に日本人の人々の精神や精神文化に大きな変化がおきたことにはならないだろうか。自然と人間や、人間と人間が結び合うとき、そこに物語が生まれ、その物語を媒介のひとつにしながら人間たちが存在していた時代が終わり、自然も人間も、自分にとっては客観的な他者になっていく時代が、このころからはじまったのではないだろうか。
内山 節 著 『「里」という思想』 新潮選書 (2005/09)
もしかすると、単なるノスタリジアではなく、これから何十年、何百年として取り戻していかなければならない私たちの大事な感覚というものを、本書は昭和の最期のストーリーとして見せているのではないかと思うのです。
願はくは之を語り現代のデジタル人間を戦慄せしめよ