~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

詩人の言葉

長田 弘 『読書からはじまる』NHK出版
を読みました。

長田弘のことは、馴染みの高校の先生から、赤城村出身でアメリカに日本学を確立させて「先生」と呼ばれた研究者、角田柳作の紹介の話の流れでしばしば登場してきて、しきりに薦められていました。

詩人の発する言葉の凄さ
というより、詩人の世界の見かた、
概念的言語よりも、鋭い感性にもとづく言葉が優先した表現に
あらためて驚かされた思いです。


私はかねてから、文化、教養としての読書にはどうも疑問、抵抗を感じているので
ホームページなどで「読書の自己目的化はよくない」などの発言を繰り返しています。

そのへんのまだ私には表現しきれなかった部分も、本書は見事に暴いてくれた面もありました。

その発想のベースにあるのが、
情報そのものに対する考え方の違い。

長田さんは「情報ではない言葉が重要」であると言います。
そのうえでの「読書」というものを語るので、
これまでの多くの読書論、
つまり、いかに良い本を、いかに効率よく読むか
といたたぐいの発想とはまったく異なる次元で話をすすめています。

 

 
 言葉を情報とだけとらえると、非情報的なことが見えてきません。意味はあっても文体のない言葉が増殖しています。知識としての意味をもちながら、その言葉のもつイメージが生き生きと感覚されない。言葉が文体、スタイルというすぐれて感覚的な魅力を欠くとき、言葉に欠けるのは言葉のちからです。

 知識だけの言葉は、言葉だけ知っていてもその言葉を感覚できない、そういう言葉です。知識だけの情報をつらねた言葉、非情報的な文体を感じさせない言葉がよそよそしくて退屈なのは、「情報を得ること」と「言葉を読むこと」は、決定的に違うからです。

 自分にとってもっとも必要な言葉は、「言葉」だけ漁っても、たぶん見つけられないでしょう。見つけなければならないのは「必要」です。

 そういうことを考えれば、言葉でいちばん肝心なことというのは、何かそのものを言い表して一つの意味をなすということではありません。・・・・・


(さらにこんな表現も、)


 得体のしれないものを斥けるのは、得体のしれないものはデータがなくて、競争の役に立たないからです。今日のインターネットまでふくめてのいわゆる情報革命とよばれる技術革新に求められているのは、先んじて新しい競争力を生みだすということです。

 しかし、今からたずねられなけえばならないのは、果たして新しい競争力でしょうか。勝つか負けるかでなくて、いつのときも競争の結果するのは、たいていは共倒れです。

 競争力というのは排除する力のことですが、たずねられなければならないのは、排除する言葉ではなく、ハグ(hug)する言葉、近づく言葉です。


日常の身の回りに氾濫している言葉にどっぷりと浸かっていると、見落としてしまいそうな大事な表現がたくさんあるので、長くなりそうだから、次回の日記に続けることにします。