~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

分ける文化・育てる文化・蓄える文化

前回の長田弘『読書からはじまる』のつづきです。

情報の時代というイメージにつつまれた社会というのは、
あくまでも中心は「分ける」文化になる。

とりわけネット社会の進展とともに「分ける」文化は、
めまぐるしい進歩をはかってきたといえる。

この国が、情報社会として「分ける」力をつけるにつれて逆に、教育社会としての「育てる」力をなくしてきたのは、ある意味では、当然の結果です。
そうであればこそ考えたいのは、「育てる」文化と「分ける」文化を繋ぐものについてです。繋ぐものというより、繋ぐちから、というほうがいいかもしれません。

たとえば、農作物で言えば、育てたものを市場で分けるには、めいめいの収穫物を、集荷場や倉庫に集めて蓄えます。そうやって集めて、蓄えることから、物流というものははじまります。つまり、「育てる」文化と「分ける」文化のあいだには、その真ん中のところにもう一つ、繋ぐちから、繋ぐ文化がある。それが「蓄える」文化です。



この蓄える文化の代表的存在が図書館であると長田さんは指摘する。
大学図書館の蔵書というのは、どれだけ読まれるかなどといった、通常の書店で考えるような棚回転率などで蔵書の仕入れを判断してはいない。
○○大学図書館というものであれば、その大学の専門学部に対応した蔵書がどれだけ揃っているかがまず第一の条件で、実際の利用率は、もちろん限られた予算のなかで考慮する条件には違いないが、書店のような優先条件にはしていない。

つまり、読まれるかどうかを優先しない「蓄える」文化があるということだ。

資料のネット閲覧やコピーサービスなどで、この蓄えた文化も限りなく「分ける」技術で補われてきているが、最初の蓄えることがいかに重要かがわかる。

しかし、この蓄えることを広く考えてみると、これまでの歴史上の文化の100年200年、千年、二千年のスパンに耐えられるような蓄える発想は、限りなく無くなってきていることにも気づく。
これだけ大量にものがつくられていながら、1世紀以上の歴史を乗り越えられるようなものがいったいどれだけあるだろうか。

その蓄える土台を喪失した環境のもとで、「育てる」文化などどこに育つのだろうか。

育てる、創造するということは、
繰り返し言ってきていることですが、頭や口でなすことでは決してなく、
必ず、手と足の反復作業の積み重ねによってのみ、できることです。

あらゆる行為や動作は、100回から1000回レベルの繰り返しによってのみ
真に身につけることができるものです。


それは読書においてもしかり。

ひとつのの本に書かれていることをわがもの、自分の身にするには、
その本を100回は読む。
または、そのテーマの本を100冊は読む。
その程度の作業を前提にして、ようやく体に沁み込ませることができるものです。

(願わくば本屋としては、1冊を100回読むより、ひとつのテーマの本を100冊買って読んでもらいたいところですが・・・)


ネット上のある知人も
読書は沁み込ませるもの、と書いていましたが
まさにその通りだと思います。

かつては、日常の生活のなかで
必ず人びとは掃除、洗濯からはじまり、風俗習慣にいたるまで
なんらかの動作の反復によって生活は営まれていました。
それらは、決して生産性の低さではなく、
人間の創造性の欠くべからざる大事な部分だったのです。

今日のわたしたちの生活では、生産性向上の名の下に
反復作業を保証する共通基盤は、どこにもなくなってしまいました。

それははたして「自由の獲得」といえるものだったのだろうか。

私がホームページをはじめた大きな理由もここにあります。
それは分ける文化としてのホームページの意味よりも
蓄える文化としての意味を求めていました。

ただひたすら消費に支えられた仕事ではなく、
10年、20年と積み重ねる仕事がなにか出来ないだろうか、
といった発想で「かみつけの国 本のテーマ館」はつくっています。



長田さんは最後にこう結んでいます。

すべてが読書からはじまる。
本を読むことが、読書なのではありません。
自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが読書です。


今年のクリスマスプレゼントはこの本で決まりだな。