~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

10年後の書斎

近頃はなんでも10年後を想定してものを考えるようにしています。
理論的に正しいかどうか判断がつかないようなことでも、この程度の長期的視野にたってものを考えると、おのずと正しい判断をすることができる場合が多いと思ってます。

ちょっと前の日記で
「書斎の寿命」
http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/19319081.html
について書きました。

現在の年2本ずつ本棚が増えるペースでは、今のマンションにもうそう長くはいられない。

んが!
前に紹介した梅田望夫著『ウェブ時代をゆく』を読むと、
これからの様々な技術革新が、この問題をこれまでは予想もつかなかったような方法で解決してくれることが考えられます。

今、グーグルやアマゾンが、あらゆる情報を検索可能な状態にするという大儀名目のために、「人類の過去の叡智」すべてを自社コンピュータにコピーする作業を続けています。

繰り返しますが、一度、この作業が、少なくとも過去の情報に関してだけでも完了したならば、それがどんなに一私企業であるアマゾンやグーグルの成したことであっても、それは全世界共通のインフラ、または情報のプラットフォームとして確立するということを意味します。

一度デジタル化された情報というのは、その製作にかかった手間などから所有権を主張する根拠はあるとはいえ、限りなく無料化への流れの上にのることになります。

「情報そのものは本来、無料」という私の前提にも依拠しているのですが、すべてではなくとも、圧倒的多数の情報は、無料の公開が基本の社会がいづれやってくると思ってます。

そうなると、情報を所有することの意味や価値といったことは、極端に薄れていき、もし所有することに意義を求めるとしたならば、どのような視点でそれをまとめているか、どのようなキーワードでそれをまとめているかといった、情報のデザイン、コーディネートの分野でのみ、それが認められるようになるのだと思います。

とすると、私の書斎・・・
これまで集めた大半は古書で占められている蔵書は、
自分では貴重なものと思っていても、
私の知らないうちにアマゾンやグーグルが、
その本の中身をたとえ古書であっても、
いつでも誰でも閲覧できる状態にまでしてしまうということ。

そうなるとハードとしての本は、
自分の挟み込んだ付箋や装丁の魅力等以外は、
純粋な情報としての側面だけを考えるならば、
所有よりもアクセスすることだけ出来れば良いということになる。

イメージはこんな風です。

自分の部屋においておく本は、過去の蔵書の中から厳選された1000冊くらいのものだけにして、その本棚がおかれた壁面は、本棚の前が巨大スクリーンで隠されている。

このスクリーンには、より進化したプロジェクターで投影された風景や書棚のイメージが普段は写っている。
(たぶんプロジェクターよりも襖4枚分くらいの液晶を進化させたディスプレイの方がありうるか?)

その壁面には、手元の端末操作で、過去の自分の書斎の本の配列の再現であったり、その時々に必要なテーマで検索並び替え自在な本の背表紙配列が写っていたり、自由自在の書架配列の映像を見ることができる。

そこで、気になった本はクリックするだけで、手元の端末でその内容を閲覧でき、壁面全体をつかって、関連ページをすべてウィンドウ方式で開き並べることもできる。

こうなると、多分書斎という空間は、椅子に座ってゆっくりと読書をするようなイメージではなく、
壁面いっぱいのディスプレイなどを使って全身で動き回りながら、徹底して考える、表現するといった作業空間になるのではないだろうか。

おそらくマスコミなども含めて、一次情報というものは、すべて社会の共通インフラとして誰もが自由に利用できることが前提になっているので、情報の価値とは、その人がそれをどう読んだかにこそ(にしか?)認められるようになっている。
そうすると、情報の所有そのものに対する関心は必然的になくなるので、書斎の本は、その配列、関連付けの仕方にこそ価値が見えるようになる。

忘れたいましたが、本屋も当然そうなる!
ううーん。

先の心配はともかく、
これってすばらしいと思いませんか?
楽しいんじゃないかな~。