~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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安倍晴明以外の陰陽師集団のこと

仏教、神道とならぶ日本宗教の三本柱のひとつであった修験道を軸に書いてきたつもりでしたが、修験道にもっとも隣接するものとして陰陽師があります。

数年前から安倍晴明がブームになり、
陰陽師もその伝説キャラクターの加持祈祷スーパーマンの側面ばかり
イメージがひとり歩きしてしまったような感じがします。
もっとも、2004年は安倍晴明の1千年忌であったわけだから、
単なるブームといわずとも、騒がれて当然の時期ではあったとは思います。

私は、ブームの時の漫画や小説、映画は何も観ていないので申しわけありませんが、
『親信卿記』『小右記』『御堂関白記』などの貴族の日記などに記されている安倍晴明の姿というのは、
加持祈祷で怨霊を打ち負かすような話はほとんどなく、
いたって真面目で冷静な宮廷に使えるほとんど今の風水師のような一陰陽師であったようです。
日時の吉凶を占い、良い方位を選び、災厄・汚穢・罪障を浄める禊祓を行い、外出に際して反ぱいを行う、など。


(ちなみに、今、お店でやっているバーゲンブックのコーナーに、今度、講談の安倍晴明CD付きを仕入れます。たぶん売る前に自分で買っちゃうかも)

しかし、ここで取り上げたい中心は、
珍奇なオカルト現象や興味本位で陰陽師の秘儀を読みとくようなことではなく、
宮廷に使えた一部の陰陽師のほかに
多数の下級陰陽師といえるような人々が、修験道、山伏に匹敵するほどの影響力ももった民衆に身近な存在があったということであり、
それは、長い人類の歴史のアニミズムシャーマニズム、さらには日本的信仰に連なる、
もっと普遍領域に属する問題と感じるからです。


陰陽師修験道と同じく、
明治維新による近代革命で、民衆を無知蒙昧にとどめおく輩として、陰陽道を布教することも、陰陽師を名乗ることも法的に禁止されました。
これは、修験道の廃止令と異なり、
朝廷、天皇と密接にかかわってきた陰陽師が、天皇制の復活強化の時に排斥されるという奇妙なねじれ現象がでています。

しかし、このねじれは、陰陽師の発生した当初からその奇妙な関係を持っていたともいえます。

宮廷に使える陰陽師は、その当初から国の統率の根幹である「暦」の管理者でもあることから、極めて尊敬された地位を持っていながらも、その最高位は宮廷貴族に比べると、
非常に差別された低い官位であったようです。

それは古代から宮廷に使える技術者集団の多くが渡来人によって担われてきたことにもよると思われるのですが、大まかなながれをみると、
まず、五世紀の頃にヤマト王朝が成立してから、六世紀中期に仏教と儒教を統治政策の根幹に取り入れるようになる。
さらに七世紀に入ると陰陽・五行説も最新の方術として採用されるようになったが、道教は国家宗教としては認められなかった。
道教系の信仰は、役行者に代表される、民間の巫げきや山野に伏して修行する修験者が担った。

この古代の渡来系のシャーマニズムと日本に既に存在していたと思われるシャーマニズムの関係は、一筋縄では解明できないが、中国の考え方によると、

素朴な民俗信仰ではあるが、北東アジア特有の巫術が古代の中国では「小道」と呼ばれた。「大道」は国家統治の法であり学である儒教儒学をさしたが、それに対し「小道」は卑俗な民間信仰を意味した。
「小道」は「左道」とも呼ばれ(た)。

ついでに付言しておくと、白川静の『字統』によれば、呪術巫儀を「左道」と呼ぶのは「右尊左卑の観念」が基底にあった。左右の原義は、右手に祝祷の器、左手に呪器を持って神に祈ることにあり、「左」という言葉には、本来的に呪術の意が含まれていたのである。
                沖浦和光陰陽師の原像』岩波書店より

こうした思想が根底にあったためと思われますが、それともうひとつ、渡来人に対する差別があったと考えられています。

それにしても陰陽寮で働く官人たちの官位は低い。長官である陰陽頭も六位である。五位になって初めて下級貴族の仲間入りができるのだが、陰陽師は出世しても、朝廷で朝廷で枢要な地位を占めていた貴族の仲間入りをすることはなかなか出来なかった。典薬寮に勤務する医師や薬師も同じだった。この種の役所には優秀なテクノクラートが揃っていたのに、なぜ中・下級官僚にとどめられたのか。
さしあたって考えられるのは、(略)陰陽・五行説をはじめ、医学や本草学に通じていたのは、縄文時代以来この列島にいた在来系ではなくて、大陸からやってきた渡来系氏族だった。それも弥生・古墳時代の頃から定住して畿内の豪族となっていた古い家系の出ではなかった。たぶん五、六世紀の頃の比較的新しい渡来系の出身者が多かったのではないか。             
                         (前掲同書より)


こうした国家中枢にいた陰陽師とは別に、在来の民間に多くいた陰陽師
国家が法制化した「触穢の体系」の普及浸透とともに、増えていったものと思われる。

そのなかでも陰陽師が深く関わった触穢の分野は以下の三つといわれる。

第一、死・産・血、それに糞尿などの排泄物が「汚穢」とされたが、そこから発現するケガレは目に見える実態だった。さらにケガレは、「穢気」として空中を浮遊するから始末が悪い、その穢気に触れるとケガレは次々に伝染するとされた。それを防ぐためにさまざまの禁忌が設けられた。

第二、アニミズム的思考がまだ色濃く残っている時代では、生命力の根源である〈気〉が萎えてくると、「気枯れ・気離れ」の現象が起きるとされた。これはもともと道教系の思考だった。そして活力の源である〈気〉を回復するためには、さまざまの呪術的秘儀と修練が必要とされた。

第三、不可視のモノで、自在に空間を動き回って人間の生命を脅かすものもケガレとされた。病気の因となる「邪気」、祟りをなす「物の怪」、人の目に見えず恐ろしい威力を発揮する「鬼神」などである。

これらの思想が浸透していくなかで
民間のなかの陰陽師集団も発展していったことが想像される。

「それぞれの郡に、斃牛馬処理などを兼ねたキヨメ集団が二つ、陰陽師・雑芸能・竹細工などを兼ねた集団が一つ存在していた」(三浦圭一「中世近世初頭にかけての和泉国のおける賎民生活の実態」『歴史評論』第三六八号 1980年。

 元禄期の頃までには、この前者が「穢多」村となり、後者が「宿」となっていく。

と、このあたりになってようやく『カムイ伝』の背景も見えてくる。
ほんとは、もう少し陰陽五行説に詳しくふれて、民間信仰に密接な陰陽師の姿を書かなければならなかったのですが、だいぶ長くなってしまったので、毎度、尻切れトンボながらこの辺までにします。


しかし、再三強調しておきますが、
特定の職種・職能のみでそれに従事する人々を特定の階層に位置づけることは、
いつの時代でも無理があり、その誤解から新たな二次差別を生むことにもつながっていることを再度記しておきます。

陰陽師集団が、宮廷周辺以外の在野に多くいたことが、
今のイメージではちょっと想像しがたいかもしれませんが、
こうした庶民の間での「触穢の体系」の浸透していったことをからめると、
修験道・山伏に次ぐ影響力のあった集団であったことも容易に想像されるのではないでしょうか。

今の占い、風水ブームをこういった歴史の視点からもう一度とらえなおすことも大切だと思います。

だいぶ今回は「引用」が多くなってしまいましたが、
陰陽師」だから。。。