~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

河原乞食と芝居

そうそう、昨年の全国地芝居サミットの会場となった
三原田の歌舞伎舞台と観客席の櫓組があまりにもすばらしかったので、
地方芝居、地方歌舞伎・人形浄瑠璃
とりわけ群馬は多く残っている歌舞伎舞台のことを整理してみたいと思っていました。
「全国地芝居サミット」
http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/19020319.html

いわゆる河原乞食とよばれる賎民から生まれた芸能の世界
歌舞伎、人形浄瑠璃、万歳などへ発展していく系譜や
その歴史と構造にはとても興味が湧きます。

このところ毎度紹介させていただいてる沖浦和光氏は
近世の歌舞伎芝居は三層構造になっていたといいます。

「上層にあったのは、京、大阪、江戸のいわゆる三都の町奉行から櫓免許を得ていた、天下公認の大芝居である。
中層にあったのは、神社や寺院の境内で興行していた小屋がけの芝居、いわゆる宮地芝居である。興業は百日に限られていたので百日芝居とも呼ばれたが、見物席には屋根がなく、櫓、回り舞台、引き幕は許されなかった。低料金なので繁盛したが、天保の改革で全国的に取払いを命ぜられて断絶した。
それよりもさらに下層にあったのが、「役者村」から出た旅回りの一座であった。」

大芝居の役者たちは、近世中期からいちおう脱賎民化したとはいえ、もともとの出自は「河原乞食」であると、つねにさげすまれてきた。
四世市川団十郎
「錦着て たたみのうへの 乞食かな」
という有名な句はその意識のあらわれ。

それで近世の歌舞伎は、享保、寛政、天保と幕政の大改革が行なわれるたびに弾圧をうけて、店天保期には、三座の大芝居もついに浅草猿若町に強制移転を命ぜられた。
穢多頭弾左衛門の敷地と非人部落に隣接する土地である。
かくして浅草の地に、典型的な〈悪所〉が形成された。

(この辺のことは、酔いどれさんがたぶん詳しいことでしょう。)

役者たちは居住地を制限され、深網笠の着用を強要され、武士や町人との交友も一切禁じられた。
役者の代表格であった七代目市川団十郎は、身分もわきまえず「奢侈 潜上」の科をもって、みせしめのために手鎖をされて江戸から追放された。

旅回りの一座の役者たちは、なかには大芝居に劣らぬ名優も出たのであるが、流浪の旅をつづける漂泊芸能者として賎視された。
彼らは、たとえば夙(宿)のようないわゆる雑種賎民と同じ身分としてあつかわれ、通婚も自由ではなかった。役者同士の結婚であって、農民や町人との通婚は全くありえなかった。

ある古老の思い出話の紹介
「あたしが役者をやめた頃は、まだ芝居の役者は世間から乞食かなんぞのように、さげすまれておったんです。芝居の座を解散にふみきったのも、これが一番の原因ですたい。そん時、あたし達は先祖が役者やったということを、断じて隠し通そうと誓うて、衣装や小道具、書きものなんか残らず処分してしもうたんです。それは明治36年のことでした。」

こんな話を知ると、歴史文化財として各地に残っている回り舞台跡など、ただ時間とともに流行らなくなり、古くなって廃れたというだけではない歴史の実像が見えてくる。
とても重いですね。


群馬の赤城山麓周辺にたくさん残る歌舞伎舞台も、決してすべてが公認された舞台としてあったわけではないらしい。

おお、ちょうど渋川の正なんとか堂とかいう本屋でやっている、みやま文庫のフェアに群馬の芝居小屋についての本があるではないですか。

「五人組帳の前書きは年頭に読み上げられて、芝居は禁止されるべきこととの条項が明らかにされていた。踊(芝居)を願い出ても差留めになったのである。舞台が神社のすべてに出来ているといっていい程に多いのは、神への信仰という農村のかくれみのであり、かくれ芝居が実施されていたことでもあろう。」
            『近代芝居小屋考・群馬県』みやま文庫

このたびの地芝居サミットに参加した小学生などの例でもそうですが、
村に来た専門職業集団の芝居を見て村人が感動するとともに、
自分たちでもやってみたいという村のなかから育った芝居も数多く存在していました。
全国の地芝居は、プロの興業集団によるものよりも、むしろこうした地域から育ったもののほうが主流であったのでしょう。

かたやそのなかにはプロ化していく中に、アマチュアとしての活動範囲の模索もあっただろうとも思います。
やがて映画の時代の到来とともに、芝居小屋が映画館になっていったもの多いのですが、そこには昭和に至る時代のひとびとの哀歌も感じますね。
当然のことながら、まだテレビもラジオもインターネットも無かった時代、人々は舞台の役者の、一挙手一動に注目して歓声をあげていた様子が目にうかぶ。