~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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真田忍者「草の者」

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ここまで、修験道の周辺に位置する非定住民の文化として、マタギ、河原乞食などに起源をたどる芸能民、そして陰陽師などに触れましたが、次に取り上げたいのは「忍者」です。

戦国時代に限らず、戦(いくさ)の場では諜報活動が戦いの勝敗を大きく握ることは広く認知されてきました。そうした役割を古くから、山伏、僧侶、商人などが担ってきたことは知られていますが、専門職としての忍者がそうした職能の人々のなかから育ったり、あるいは提携協力して発達していったことは容易に想像がつきます。

しかし、忍者という特殊な集団の実像については、時代小説や時代劇ドラマで誇張、脚色されたイメージが強く定着してしまい、真の姿を知ることはなかなか難しいものです。

その点、伊賀・甲賀の地以上に、群馬県中之条町周辺、岩櫃城や高山城のあった近辺には、真田の忍者に関する資料が意外と豊富に残っていることはあまり知られていません。

池波正太郎が『真田太平記』でお江という女の忍者を軸にして見事な長編を書き上げていますが、そうした作品が可能になった背景に、有名な伊賀・甲賀の忍者などに比べて、真田の忍者については、秘密を原則とした忍びの世界でも異例の具体的な資料が残っていたことにもよるかと思います。

昨年、私は中之条町の歴史民族資料館に行ってその資料のいくつかを実際に見ることができたのですが、そこで発行されたパンフレットには、貴重な資料がまことに稀有な事由でこの地に残った理由を以下のようにまとめています。

(1)、武田信玄から信望が厚かった忍びの養成隊長ともいうべき出浦対馬守幸久が、天正十年三月武田氏滅亡ののち、真田氏に招かれ服属し、のち岩櫃城代となった。
そしてこの地を根拠地として、多くの精悍な野武士たちが厳しい訓練のもとに、世にいう「真田の忍者」として育成された。
このほか信玄の時代、甲州に通称を原仁兵衛という軍配者(軍略家)がいた。原は入道して来福寺左京と称し、また修験の名を千蔵坊といった。郡内修験者の総元締りをつとめ同時に忍者の養成にも心をくだいた。
(ここに明確に修験道と忍者の活動が重複混在していたことがうかがえる)

(2)、五代真田伊賀守真澄の家臣に加沢記の著者としてしられる加沢平次左衛門なるものがあった。氏は当時稀にみる文筆家であり、博識を身につけていた。中之条町横尾の出身で、矢沢頼綱の曾孫にあたり、晩年一毎斉と号し、豊富な資料を使って、天文十年から天正十八年までの約50年間の真田氏を中心とする戦国の歴史を残した。この中に貴重な忍者の資料がふくまれている。

(3)、同じ真田伊賀守信澄の代官で中之条代官所に勤務していた、もと中之条町大塚の出身で林理右衛門という、文筆にたけた武士で、当時加沢記とならび称せられた「吾妻記」をまとめ(新井信示氏説)ここにも忍者の記録を残している。


忍者のことを真田太平記では「草」、「草の者」と呼んでいますが、
透波(スッパ)、鳥波(スッパ)、出抜(スッパ)乱波(ラッパ)
スッハ(信州)、ワッハ(上州・武州)、くさ、かまり、ふせかまり、かぎ物きき
などの呼ばれ方をしていたようです。

このような上州の地の忍びの歴史の特殊性から、私は以前
かみつけの国 草の者研究所を設立し、
その活動の一環で以下のようなことを試みたことを前に書きました。

「草の者の道」
 http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/5680529.html
「草の者になる」
  http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/5970588.html

まだ長くなりそうなので
次回につづきます。