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西郷隆盛の「征韓論」にふれて

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稲盛和夫
『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』
日経BP社 定価 本体1,700円+税


数日前、わがエージェントとの会話でNHK大河ドラマ篤姫」で放送された桜田門外の変の話題になりました。
そのときの刺客が薩摩の者であることを聞いて、篤姫がショックを受けた場面があったことをエージェントの話から知りましたが、その薩摩の武士はどこから来たのかとか、いったいどういう捩じれがあるのか、等などなにかと話がやっかいになってしまいました。

私は、吉村昭の「桜田門外ノ変」を読んだ程度の知識しかないのですが、そもそも幕末の薩摩藩というのは、とても捉え方が難しい。
会津水戸藩、薩摩以外の倒幕諸藩と比較しても、どうも薩摩だけは一言で語れない側面が多い。
テレビを見ていないので、その辺がどの程度「篤姫」で描かれているかわかりませんが、まず薩摩藩島津斉彬自体が、名君ではあるがその方針はちょっと掴みがたい印象をもつものです。それに加えて、その家臣として人望もありながら、どれだけ回りに理解されていたか定かでない西郷隆盛という巨星の存在。

薩摩藩自身が九州の諸藩が共通するように、幕府がどうであれ、時には単独で諸外国と闘うことさえ強いられるような立場であったため、中央よりははるかに現実的な情勢判断の目をもっていたといえる。にもかかわらず、日本のこれからについては大義に基づいた遠大な方針も堅持していた。

それだけに、中央からの歴史観だけでは薩摩藩の行動や島津候や西郷の行動はとらえきれない。

その顕著な例が「征韓論」です。
王道、大義に一貫した姿勢を貫いているにもかかわらず、残念ながらその表面しか伝わっていない。

わたしたちの時代の学校の教科書では、大久保らに対して西郷・板垣は「征韓論」を主張した、と習ってきました。
西郷ほどの人が、どうして「征韓論」など主張したのだろうか、なにかよほどの理由があったのだろうとは思いながらも、当時の私にはその理由は見当もつきませんでした。

それが稲盛和夫の『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』の説明を読んで、はじめてすっきりさせることができました。

今、ネットで調べればこうしたことは、いろいろ書かれていましたが、未だに多くの人にとって、どのように西郷が「征韓論」の立場といわれるようになったのか、なぜ、最後は勝ち目のない闘いとわかっていながらそれに果てたのかなどの答えは、多くの誤解の上にあるのではないでしょうか。

(以下、引用です)

 江戸幕府の時代には、朝鮮使節団が定期的に日本を訪問するなど、日本と朝鮮は親交がありました。ところが、明治政府になって、朝鮮政府が西洋文化に浮かれたような日本を軽蔑するようになります。素晴らしい東洋の文化、つまり儒教や仏教に裏打ちされた高度な文明を誇っていた日本が、西洋かぶれしている。洋服を着てハイカラになり、鹿鳴館でダンスを踊っているのみならず、その精神までを西洋に売り飛ばしたというわけです。

 そのため、日本政府が通商問題で使節団を朝鮮に送ったとき、朝鮮側は交渉を拒否しました。日本政府は侮辱された、外交的に面子を失ったと怒ります。そんな非礼なことをするなら、軍艦に兵隊を乗せて強行談判すべきだという論が起こります。
そこで西郷が「私が行く」といったのです。

「兵隊も連れなければ、軍艦にも乗らない。私ひとりが丸腰で行き、正道を踏んで、朝鮮政府をただす。そんな非礼はおかしいと相手の非を分からしめるように話せば、理解してくれるはずだ」というのが西郷の立場でした。

 ところが、丸腰で行くという西郷に、政府内からの反対の声が湧き起こります。
「あなたが行けば殺される。正しいことを正しいと突っぱねただけでは受け入れられないに決まっている。やはり軍を率い、軍艦に乗って国の威信をかけて交渉すべきだ」
「それでは相手を威嚇してしまう。その結果、心ならずも戦争になってはたいへんなことになる。戦争が目的ではない。私がひとりで行く」
「殺されたらどうするのか」
「殺されたら本望だ。私を殺すような非礼を朝鮮がするなら、そのときにこそ兵隊を連れて行って戦えばいい。最初から兵隊を連れ、けんか腰で押しかけたのでは、戦争になってしまう。戦争を意図するのではない」

(引用終わり)

 今の時代に大義、王道を説くなんていえば、すぐに馬鹿にされそうですが、それを通すには、やはり西郷のような自らを律することの出来る人格者でなければ相手は通じない。