~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

金谷常平 『一日暮らし』

イメージ 1

金谷常平さんの前の著作『榛名山歩』が出たとき、お店にたびたび「金谷先生の本ありますか?」と聞いてくるお客さんがくるのをみて、たぶん生徒たちに好かれている先生だったんだろうなぁと、まだお会いしたことのないその姿をなんとなく想像していたのですが、私は本書の内容を見て前著作以上に、その思いを深めることになりました。

日頃、郷土関係の本や資料を見ていると、元教員であった方々の手によるものがとても多いのに気づきます。当然のことと思いますが、それらの文章を見ていると、どうして先生方の書く文章といのはかくも教科書っぽくなってしまうのだろうか、とつい思ってしまうことが多いのです。
綿密に資料を調査して見事にまとめあげてあるにもかかわらず、その著者なり編纂者の顔というものが、いまひとつ見えてこないことがどうも気になってしまっていました。

同列に論じるわけにはいかないかもしれませんが、優れた研究者によってまとめられたものは、たとえそれが年表のようなものや事典のような資料であっても、強烈なその筆者の匂いのようなものが漂ってくるものです。

そんなことをしばしば感じていたときに、それらの私の印象をくつがえしてくれる金谷先生の本に出会いました。
今回は、『榛名山歩』『還暦からの日本アルプス山歩』に続いて三作目の本です。

どれも山歩きについて書いた本ですが、そのどれもが、それぞれの山のコースガイドを中心にしたただの山行記録ではありません。

昔から山についての名著というのはたくさんありますが、その多くは著名な哲学者や文学者、あるいは事業家などが山行を通じてその思索や自然の描写を美しく語ったものです。
しかし、それらの崇高な自然との対話を叙述した本を読んでいるとき、わたしは身を洗われるような爽快感を感じながらも、なぜか自分の感覚との間には少しばかりか距離を感じずにはいられませんでした。
その感覚が何なのかわからないまま、いくつかの山岳小説といわれる領域を読み出したとき、あることに気づきました。

多くの人は、山に登ったり大自然のなかに入るときに、下界とはかけ離れた純粋自然の美しさのようなものに憧れていきます。ところが、そこに来た人々の多くは、日々の下界での出来事から完全に逃れることはできず、その日々の生活や悩みを背負ったまま眼前の自然との対話をすることになる。そこに多くの山岳小説のドラマが生まれる。

わたしたちは、大自然のその巨大なスケールに圧倒されながらも、自分のからだのその小さな主観を通じてしかそれを見ることができません。
すぐれた文学作品は、その小さな個々の主観のすがたを見事に描いてくれています。

その主観に立ち入れるかどうかの差というのは、なんなのでしょうか。
私はそれは「自己との対話力」なのではないかと思うのです。

もともと金谷先生の山歩きの文章というのは、スポーツ登山ともレジャー登山とも一線をかくしたものを追求する姿勢がはじめからうかがえるものでした。

それが今回の著作では、冒頭で白隠和尚の師である正受老人の史跡を長野へ訪ねる旅としてはじまっており、それがひと際色濃くでているように感じられました。

そもそも山歩きという行為自体が、自分の足で一歩一歩進みながら、自分の体で感じるスピードで五感をふるに働かせて、感じて、考える行為です。
その意味で、これほど自己との対話にふさわしい行為はないのかもしれない。

そんな期待感をもって、今、わたしは本書を読みながらこの文を書いているのですが、
ちょっと中盤に読み進んできたら、はじめの印象がやや薄らいできてしまった。

むむむむ・・・、
いいところをいっているのに、『榛名山歩』に比べると著作の一貫性にやや欠けるような感じがしてきてしまいました。

金谷先生、これだけ味のある文章が書けるのだから、是非、次回は
榛名山歩』のように、ひとつのテーマで掘り下げるような著作を、
個人的な希望では、正受老人との対話をいっそう深めるかたちで!
お願いします。