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田中優子の『カムイ伝講義』

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カムイ伝講義』というタイトルをみると、多くの人が待ってましたとばかりに、
不朽の名作の深いストーリーの絵解き解説を期待されることと思います。

ところが本書は、そうした期待を胸に手にとった人には少し異なった印象を与えるものと思います。

本書は著者が大学で歴史の講義をする素材として『カムイ伝』を取り上げた経緯があり、
その意味で、『カムイ伝』のストーリーの解説よりも、『カムイ伝』のなかに丹念にえがかれている様々な人間の生活を解説することが主眼となっているものです。

「『カムイ伝』は穢多の記述が衝撃的で、その印象が独り歩きしてしまったふしがある。また忍びの面白さについ注目してしまう。しかし、『カムイ伝』はそれらの土台のところで、「人間の(あるいは生き物の)ふつうの生活」をじつに丹念に描いているのだ。」15頁

宮崎駿の「もののけ姫」などにも共通して感じられることですが、すぐれた作品は、それがフィクションであったとしても、そこに登場する場面や背景は、実に丹念な取材のもとに、しっかりと緻密に描かれているものです。

自然の風景にしても、登場人物の服装から使われる道具類や建物など、どれもフィクションでありながら個々のパーツは、膨大な史実や実際の資料にもとづいて書きこまれているものです。

そうしたリアリティが、作品の主題を浮き上がられる大事な要素となっているのです。
著者は『カムイ伝』のそこに注目しています。



江戸時代の身分社会を例にとるならば、その複雑な階層性について次のように述べて、現代との対比を浮き彫りにしています。

「これらはやっかいなことに、職名や収入が違うということだけではなかった。組織の中の役割を固く結びついていたのだ。そこで、自分の能力を発揮すればいいということではなく、組織における自分の位置をわきまえて上や下に対しそれなりにふるまわないと、仕事にならなかったのである。」と述べている。

これに対してはるかに自由が拡大しているかの現代では、
「個々の能力の個性や偏りに関係なく、全国民が同じ基準(学校の成績や就職先)で評価判断され(あるいは自分を評価す)るということになる。基準が一つしかないので、落ちこぼれるとその人生は失敗と見なされる傾向がある」

他方、遅れた封建制度といわれた江戸時代では、
「機会の平等は保証されていないが、気が遠くなるほど多様な小社会が存在していて、一つの社会での失敗は完全な失敗とはいえない、という側面があった。」


このようなものとして、農民のくらし、海に生きる人々、山に生きる人々、夙谷に生きる人々、さらに階級内差別は最も厳しかったといえる武士の様子などを、『カムイ伝』は実に丹念に描いているのです。

そしてそれらの個々の世界で生きる人々が、どうして現代の我われと比べて、厳しい環境のなかでありながら生き生きとした魅力的な人物として多くの登場人物が描かれているのか。
この問いに著者は、正助の姿を借りて次のように書いています。


「『カムイ伝』の正助は、日本の農民とくに江戸時代農民のありようを象徴している。田畑の耕作を食糧確保の仕事であると考えるだけでなく、さまざまな改良工夫をしようとする。しかしそれは遠い漠然とした理想や夢や名誉心ゆえではなく、ともに暮らす村人たちの生活の充実のためである。(略)毎日の生活に密着した夢の実現であり、自分自身と周囲の人々すべてのための行動だ。

 ところで、現代の若者には何が要求されているだろうか?大人たちは彼らに、「夢は必ずかなう」と言う。「前向きにあきらめないで生きなさい」と言う。しかしその夢の中身は、金儲けだったりスターになることだったり、資格をとることだったり、いい会社に就職することなのだ。その金で何をしたいのか、その資格で誰を救うのか、それは何の役に立つのか、という足もとの想像力が欠けている。現代人(若者とは限らないが)には夢がないわけではない。夢の中身が大地を離れ、宙をただよっているのだ。自分の身の底から出た夢ではなく、人に与えられた夢だからだろうか?そんなに金だけ持って、その金で何をするのか?

カムイ伝』の登場人物たちはその対極にある。成さなければならないことは常に足もとにあり、目の和前にあり、急いでいるが、壮大である。この「壮大さ」を持ち続けるのは難しいが、それ以外は江戸時代農民の日常の姿であった」  本書80頁より


とても大事な記述が多いので、引用が長くなってしまいましたが、本書を読むことで多くの人が認めている名作『カムイ伝』の読み方が、少し変わってくるのではないでしょうか。
いや、歴史に対する見方も、これまでよりももう少し地に足のついた見方に変わるのではないかと感じます。


田中優子著 『カムイ伝講義』
小学館 定価 本体1,500円+税