~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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水村美苗『日本語が亡びるとき』に触発されて(1)

前に紹介した水村美苗さんの『日本語が亡びるとき
筑摩書房 定価 本体1,800円+税
この本が、あまりにも多岐にわたって示唆に富んだすばらしい著作なので、数回にわたって本書を通じて考えたことを書いてみたくなりました。

 以前、アメリカドルの力が衰退したことで、世界の多極化が進行すること。
アメリカの圧倒的優位は無くなるものの、大国として、アメリカ、中国、ロシア、インドの優位とその覇権争いは残ること。
 日本はそれらの国々のような広大な国土こそ無いものの、生産力人口の規模などにおいては、先進国のなかでは1億人以上もいる国であることを考えると、日本が決して小さな国ではなく、もともと大国といってもよいほどの力を持っていることなどについて書きました。
  http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/5fbd81f2711d41f01c6a5aad127a9fc1

 この印象を、水村さんの著作では言語の問題を通じて、一層明確に感じることが出来ました。
 英語と中国語、ロシア語を除いたならば、世界中の様々な言語で、一億人以上が使用している言語は、いったいどれだけあるものでしょうか?
 植民地時代のフランス語圏、スペイン語圏を除いたならば、一億どころか、世界の国ぐにの圧倒的多数の言語は、5~7千万人以下の需要しかない国ぐにのなかで使われているのが実体のようです。

 それだけに、普遍語、公用語としての英語が広まるにつれて、それらの僅かな需要しかない国語、現地語は、いかに国家の保護のもとにおかれたとしても、多くの国では瀕死の状態にあるといえるのではないかと思います。
 この問題には、今回はこれ以上深入りはしません。
 今日は日本の問題に限定します。

 わたしたち出版業界が、1996年頃をピークとして、この10年間でおよそ二割、市場が縮小してきたこと、さらにこれからの10年でピーク時の半分以下にまで縮小することが必至であることを私はこれまで何度か書いてきました。
 ところが、この深刻な事態も、水村さんの本で世界の国ぐにの国民文学の実体を見ると、まだまだ贅沢な悩みであるように思えてくるのです。

 水村美苗さんは、英語の堪能な小説家として文学関係の国際会議に出ることが多く、そこで出会う世界各国の文学者、小説家の実態を現実に知る機会もとても多いようです。
 そうした国際会議で同席する各国の小説家は、国民文学作家として活躍する場合、その国の言語の使用者の数の大小にかかわりなく、自国の民族語を使用して書くことそのものを誇りとしている場合が多い。

 ということは、
 英語、ロシア語、中国語を除いたならば、
 世界の圧倒的多数の国ぐには、
日本が日本語の使用者を1億2千万人以上持っていることに較べたならば、
日本語の使用者人口の半分以下の規模の言語利用者しかない国ぐにであるとういことを再認識するべきだと知りました。

 主要先進国のなかでも、ドイツですら人口は8200万人程度、イタリアが5800万人、フランスが6800万人といった態度(いずれも旧植民地諸国は除く)で、圧倒的多数の国ぐには、日本の半分以下の市場規模です。

 生産力人口の規模を考えたら、日本の製造業以外の生産性がいかに低いかということを私たちはもっと自覚しなければなりません。

 今、国際的な不況で外需の落ち込みが深刻な問題であるといわれていますが、これまで経済発展に出来ることはなんでもしようとする姿勢自体は問題ではないとしても、外需に依存しなければ国が支えられないという発想は、これらの数字からいかに根拠のないことであるかはわかるのではないかと思います。

 つい経済問題に話が広がってしまいますが、世界の国ぐにの国民文学作家たちは、そのほとんどが、日本の半分以下の規模の言葉の通じる読者しかもっていない環境で活動しているということを知らなければなりません。
 半分とか3分の1どころか、世界に存在するあまたの少数民族からすれば、数千から数十万人しか、その民族の言葉が通じない社会で活動している作家も少なくないのです。

 日本のように、有名作家でなくとも、なんとか自国の言語で小説を書いて食っていけるなどという環境は、国際社会のなかではむしろ異例のほうの部類に属するのだと思います。

 こうした国際的な前提にたったとき、
もちろん、だから誰もが英語で書いたほうが得であるとか、国民に英語教育を徹底したほうが良いなどということになるのではない。
そもそも、潜在的な利用者、あるいは読者規模に左右される構造そのものに依拠した発想そのものが、「不合理」であると考えることが、これからの国民文学の復興を議論するうえでは大事なのではないかと考えるのです。

 3,000人しか利用者がいない少数民族の言語と8,000万人が利用している言語の間に、数の大小で優劣があるわけではない。
 このことは、比較的誰もがすんなりと理解してくれることだと思います。

 ところが、3,000人にしか読まれない小説と20万部売れた小説とを比較した場合には、
どうしてもそれは作品の力の差として受け止めてしまいがちなものです。

 これに断固、ノー!と言える社会のしくみや考え方が、これからの時代は大事になってくるのではないでしょうか。

 3,000人の市場では食べていけないから、外需を拡大するとか
 よりマス市場が期待できる英語圏に参入するとか、といった発想では、
そもそも世界中の国ぐには成り立たないのです。

 世界の圧倒的多数の国ぐにから較べたなら、はるかに有利な条件に恵まれた日本です。
水村さんの『日本語が亡びるとき』とは、だいぶ論点は異なりますが、日本語という1億人以上が利用しているメジャー言語の国の出版業は、ピーク時の半分以下にまで市場が縮小したとしても、世界の国ぐにの標準サイズにやっと近づいた程度の問題なのです。

たしかにこれから多くの書店や出版社が潰れていくことは間違いありません。
だからといって、やっていけないという理由にはならないのです。
「わたしたち」は、これからもやっていきますから。


                   私の別ブログ「かみつけ岩坊の雑記帖」から転載