~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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熊野信仰と「義経記」

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 「義経記」で、義経らが奥州平泉へたどった道のりをみると、しばしばなんでこんな遠回りの道を選ぶのかと疑問に思えることがある。源氏系列の武士を頼ることになれば、そう直線的な道のりばかり選べない事情もたしかにわかる。でもどうも納得がいかない気がしてならなかった。

このことを歴史物語に詳しい相方に訊ねたら、物語を面白くするためでしょ、と言われた。なるほど、と返す言葉がない。
そんなことも私にとっては、平家物語義経記などの物語の構造に対する興味を次第に深めていくきっかけになっていった。

この不可解な道行のなかでも印象深いのは、「北国落」で義経が周囲の反対を押し切って平泉寺へ立ち寄ろうとする場面です。平泉寺は天台宗修験道の栄えた道場でもある。にぎわい栄えた地は避けるのが道理でありながら「横道なれどもいざや当国に聞こえたる平泉寺を拝まん」と観光気分かのように迂回して参詣する。
すると案の定、予想どおりの危機に直面するが、ここも弁慶の機転によってなんとか切り抜けることができる。どうしてそれほどまでして平泉寺に行きたかったのか?
かたや日本海を船で進み遭難しかけてたどりついた寺泊。そこからすぐ近くに今では良寛ゆかりの地で知られる国上山という修験の地があるがそこは登ることなく弥彦明神に詣でている。
 おなじく終盤の羽黒修験の地も、自ら前半は羽黒修験を名乗ることまでしていながらも、実際に近くに行ったときは素通りしている。

 のちに私はこのことには、宗派の選別意識が働いているという見方があることを知りました。つまり天台熊野修験の支店・出張所に立ち寄っても、真言修験の越後国上や羽黒山には詣でることなく無関心であったと。

 このことは、義経や弁慶の信仰する宗派の問題よりも、どのような人によって「義経記」が語り広げ伝えられてきたかということに深くかかわっているようである。

 つまり天台熊野修験を広めた人たち、その派の山伏はもとより、熊野比丘尼出現以前の琵琶法師たち、彼らが熊野信仰を広める活動の一環としてこれらの物語を組み立てていたと考えるとすべての辻褄が納得いくかたちで理解できるようになる。
 天台熊野修験ゆかりの地ばかりを詳しく語り、そこで危機の場面を演出し、その危機を熊野修験道山伏である弁慶の力でもって乗り越えていく。そうした筋立ての上では義経はむしろ脇役ですらある。

 だれによってなんのために書かれたのか、鮮明に浮かび上がってくるような気がする。

 そんなことから推察を重ねていくと、義経伊勢三郎と上州の安中で出会うのも、史実としてみるよりも、なんらかの修験道の関連がその地にあったのではないだろうかとも思えてきてしまう。こまったもので、また宿題が増えてしまった。 
 
    準備中の『吉野・熊野紀行』より転載