~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

古代の有馬氏ってどれほどの勢力だったのか?

イメージ 1

前に書いた大島史朗先生の講演で、今の渋川市周辺が有馬氏の勢力圏の範囲であったとは断定し難い、
渋川氏につながるなんらかの独立した富裕な勢力圏が存在したことを知りましたが、
ここにきて急に、有馬氏そのものがはたしてどれほどのものだったのか、疑わしくも思えてきました。

これまでのイメージでは、尾崎喜左雄先生が最初らしいのですが、群馬の総社の地は上毛野君でも車持氏でもない有馬氏の勢力圏であるといわれ、
そこから北の渋川にかけての一帯がその範囲であると思っていました。
わたしもこれまでそのことに何の疑いもなく、そう信じていました。

ところが大島史朗先生の今回の講演で、その北方がどうもあやしく思われだしたばかりでなく、
以下の著書で有馬氏の存在そのものもいろいろ疑わしいことも知りました。

それは
熊倉浩靖著 『古代東国の王者 上毛野氏の研究』 雄山閣 (税込価格5880円)
によるものです。

そのなかの上毛野君の本拠地を推定するくだりのなかで、有馬氏の存在そのものをも疑った記述があります。
(本書は、古代群馬を語る上で欠かせない大事な著作なので、これからも機会あるごとに関連する項目を紹介したいと思います。)


尾崎先生が有馬君なる氏族の存在を想定され、それを総社の地に結びつけられた根拠は、
『和名類聚抄』上野国群馬郡条に「有馬郷」が載せられていることと、
新撰姓氏録』右京皇別上の垂水公条に「阿利真公(ありまのきみ)」が見えることによる。
            (熊倉浩靖著 『古代東国の王者 上毛野氏の研究』 雄山閣


遺跡発掘の成果からも、有馬廃寺や有馬、行幸田、八木原地区を中心とした条里の跡など
それなりの勢力があったと思われる根拠はある。

ところが、熊倉氏によると有馬廃寺にしても、有馬条里にしても、有馬氏と関連づけられるなんらかのものがあってそう呼ばれているわけではなく、
現在の有馬という地名周辺から発掘されたために呼ばれているにすぎないということらしいのです。


(以下前書より引用)
一方、上毛野国には上毛野君以外に君を称する人びとがいた。
日本書紀天武天皇十三年(684)に「上毛野君・車持君・佐味君・大野君・池田君ら五十二氏に朝臣の姓を賜う」とあり、
「上毛野氏の同族」とあるが、阿利真公(有馬君)の名は見えていない。
近年の研究では「阿利真公は個人名で氏の名ではない。有馬君などという氏族がいたように言われるが、古代において
そのような氏は存在した形跡がない。」(黛弘道著『上毛野国と大和政権』)との否定説もある。
今後の研究をまつほかはない。




結局まだわからないということなのでしょうが、
ちょっとした研究が、その後当然の事実として多くの人に思い込まれてしまう怖さというものも感じました。