~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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上野国分寺跡と橘諸兄

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「かみつけの国 本のテーマ館」のお仕事で、上野国分寺跡に行ってきました。


駐車場の狭さやわかりにくさなどから、実際に訪れる人は少ないのだろうと感じましたが、七重塔の復元模型をみて、往時の規模の大きさがうかがわれあらためて驚きました。

この七重塔がそびえていた当時の様子を想像しただけで、どれだけ多くの人の古代群馬のイメージをひっくりかえすことができるでしょうか。


七重塔の復元模型によると、その高さは60m。
奈良で一番高い興福寺五重塔でも50.1mです。
木造日本一の高さを誇る京都の東寺五重塔でも54.8m。
五重と七重の違いはあるものの凄いことに変わりはない。
各地の国分寺も、ほぼ同じ設計図でつくられていたようですが、これがもし存在していれば、
東大寺の七重塔の推定高さ100mに次ぐものだったのではないでしょうか。


おそらく、当時その姿は上毛野国のかなり広いエリアで見ることができたことでしょう。

ヘタな建造物を復元するよりも、この敷地をきちんと整備して、今の資料館などを充実させることが出来たら、かなりすばらしい場所になると感じました。

おすすめ参照ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kamitukeno_k/53815502.html

古代史を語るならば、奈良の次は群馬へ。
必ずしもこれは誇張した話でもありません。


国分寺天平の時代に聖武天皇が、仏教の全国普及のために全国に造ることを命じたもので、僧寺と尼寺を対につくられています。

国分寺政策が命じられたのが741年。
上野国分寺ができたのが749年ころ。
東大寺ができたのは752年。
都からは遠く離れた東の地ですが、ずいぶん早い時期に造られ、その規模も最大級。


この国分寺計画は、その破格の規模の大きさから早々に事業の遅れが目立ちはじめ、その責任者であった橘諸兄も急速に立場が悪くなっていきます。

この橘諸兄という人物に私は、格別な興味があります。
その第一は、万葉歌の作者としてです。
渋川市の花である紫陽花をうたった万葉歌は、たった二つだけ。
そのひとつ

あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを
   いませわが背子 みつつ偲はむ 

(安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟)
                     (巻二十-4448)
 これが、橘 諸兄によるもの。

さらに興味をひいたのは、藤原氏が中央の要職を独占しはじめる時代に、
当時の藤原氏の上位の人が相次いで亡くなったことで急に出世することができたラッキーマン
かと思いきや、無茶な国分寺政策の責任を負わされる側に。
いつかその人物像を調べてみたいと思っています。


この全国に造られた国分寺計画のなかでもこの上野国のものが、なぜこれほど大規模なものとして早い時期に造られられたのでしょうか。
予算不足に陥る前に造られたので最大級となった?

そうかもしれません。


しかし、それ以外に、この上毛野国をはじめとする北関東の地の特殊な環境もどうやら大きな理由になったようです。
さまざま推測されるその理由は、やっかいな議論になるので書くのはまたの機会にします。