~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

病名つけることより「養生」

 以前、法事の場で親族が集まって毎度のことながらそれぞれの健康談議になったとき、従兄の医師が、病名を診断するのは医師の仕事であって、患者のすることではない、
という話になったことがあった。

 患者は自分の症状からいろいろな病名などを推測して判断したがるが、病名を診断するのは、あくまでも資格をもった医師の仕事であって、患者のすることではない、と強く言うのだ。

 たしかに素人知識で生半可な判断は禁物であるが、その場ではわたしは、患者の意識と断絶した医師の立場、客頭になりきれない側の問題をむしろ感じた。

 この問題に限らず、誰でもとりあえず、なんらかの病名がつけば一定の不安から解放される共通した傾向がある。
自分の症状の原因がわからない場合、病気の真の原因よりも、とりあえず病名が定まることになによりも安心してしまう傾向がある。

 これは病気の場合だけでなく、ひとの認識の共通したことでもある。
 混沌とした現実に対して、まず名前など概念的な認識を得ることはとても大事な一歩であるが、それは、混沌とした複雑な現実のある特定の部分を抽象化した作業で、必ずしもそのもの全体を表現しているわけではない。

 このことが、こと病気の問題になると、とりわけ大事な問題を含んでくる。
これはインフルエンザである、肝臓病である、糖尿病によるものである、癌である等々といった医師の診断は、「病気」という生命を維持するための生体の発する危険信号をキャッチした作業にすぎず、それは必ずしも、病気に至る原因まですべて説明しきっているものではない。そればかりか、ひとりの医師には手にあまる症状で、結論に至ることができないまま患者が病院をたらい回しにされることは決して珍しいことではない。
それでも、なんとか病名が確定するまで患者は医師にすがりつく。

 先に五木寛之の『林住期』の紹介で「治療」医療に対する「養生」の医療の話しをしたが、治療のための病名確定作業よりも、養生のための原因確定作業の方がはるかに大事であるにもかかわらず、すでに苦痛を抱えた患者の立場では、つい根本治療や原因根絶の対策よりも、その場の治療効果の方をどうしても期待してしまう。
「養生」のことはまた改めてどこかで語る機会があるかと思うが、ここではここに潜むもうひとつの問題にふれたい。
それは、「病名が病気を呼び込む」という作用のことである。

船井幸雄デンマークで行われた興味深い実験を紹介している。

 それは、何百人かの成人男女を集めて無作為に二つのグループに分け、一つのグループには主治医と健康管理専門スタッフをつけて定期的に人間ドックに入れ、もう一つのグループは何もしないで放っておくという実験でした。
ふつうに考えれば、「万全の管理体制の下で生活しているグループのほうが、ずっと健康でいられるに違いない」と思うことでしょう。世の人が忙しい合間に健康診断を欠かさないのも、いつまでも元気でいたいからにほかなりません。
ところが、驚いたことに、人間ドックを定期的に受けていたほうのグループから病人が続出し、5,6年後に、なんと全員が病気になってしまったのです。
しかも、彼らが患ったのは、人間ドックなどの結果から、「気をつけたほうがいい」と言われた部分でした。

 こうした例は、このような大がかりな実験をしなくても、割合身近にたくさん見ることもできます。
よく言われることで、肩こりは日本人特有の症状で外人に肩こりはない、と言われます。
ところが、日本人から肩こりの症状の話しを聞いた外人は、それまで経験のなかった肩こりがおこるようになってしまうといいます。

 病は気からという話はもとより、「言霊」の力や加持祈祷の力を、決して超越した世界のことではなく日常のこととして感じることができるはなしでもある。

また長くなってしまったが、
以上のようなことからも、病名を意識した治療医学よりも、健康な状態を意識した「養生」の医療を日ごろ心がけていきたいと強く感じるものである。