~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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脳 VS 心臓

脳が人間の意識の中枢であることに間違いはない。
だが、ひとの「こころ」、存在の核心がはたして脳にあるといえるのだろうか。

脳死判定をめぐる臨床例などから、脳のほとんどが死んだ状態になっても
脳幹のほんの指先ほど小さな部分が残っているだけで、
ひとの意識はまだ存在しているといえるようだ。
それがほんとうに意識といってよいレベルのものなのかはわからないが、
ただの記憶、メモリーの反応だけでなく
自らの存在をきちんと自覚しているらしいことは認められている。

ただ、脳死判定を軸とした議論は、ひとの臓器摘出の時期や可否がベースになっているので
議論そのものは興味深いが、ものの見方は注意しなければならない。

それでも、
わたしには、脳は基本的には、
モリー回路にすぎないのではないかという気がしてならない。
思考活動も、感情反応も高度な神経回路の電気反応のようなものの積み重ねで、
ひとのアイデンティティーは、もっと論理や感情反応に左右されないところにあるのではないだろうか、といった思いがぬぐい得ない。
というのが私の感覚的立論のもとになっています。

前回書いた、心臓という臓器、あるいは胸の奥という感覚が
世界中、民俗や習慣、言語を問わず、「私」という存在を感じる場所であることが、
もっとなんらかの根拠のあることに思えてならなのです。

胸がふさぐ、
胸躍る、高鳴る
胸騒ぎ、
胸にかかわるこれらの言葉は、
喜怒哀楽の様々な感情や深い思考活動よりも、
ずっと人の深い存在にかかわっているように見えないだろうか。

脳の直接支配を受けない自律神経系のほうが、人間の生命存在には直結している。
しかし、そこに一般的に意識や感情をつかさどる器官は存在していない。
ただ心臓はそれらあらゆる器官(脳の各反応部分を含めて)に、
血液、酸素、エネルギーを送る決定的支配権を持っている。

脳死の議論で、どの部分が生きていれば、
どの部分が死んでしまったらといった問題ではなく、
血流の停止こそが、死の基準といえるのではないかという考えがある。

どうしても、こと脳死判定になると話は難しくなってしまうが、
ひとの生死一般の基準を考えた場合、
呼吸停止、心拍停止、血流停止こそ誰もが納得する判定条件だと思う。

決して科学的な議論ではありませんが、
ひとの存在の根幹は、脳よりも、心臓のほうが多く握っているのではないだろうか。
他の動物と区別する、より人間的要素としては、
やはり発達した脳がなによりも大事な要素であることに違いないが、
だからこそ、そのより高度な脳の活動を左右する心臓の存在が
人間としても格別な意味を持っているのではないかと思う。

微妙に言いたいことがズレてきてしまったが、
「生命」といったものを考えた場合、
どれも不可欠なはたらきをしている各器官に決して優劣があるわけではない。

しかし、人間の人間たる所以を示す「脳」のはたらき以上に、
生命、エネルギーを供給する心臓の存在は、
単に重要な器官としてでなく、生命そのものの核として
そやはり格別な他の意味があるのではないだろうか。

(つづく)