~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

情報の値段は本来タダ(無料)

前回、「ブログ・オブ・ウォー」という本の話をきっかけに
新しいメディアを代表するブログと本の可能性についての話になりました。
そこで、ブログに限らずこれから次々と新しいメディアが登場する時代に
ペーパー書籍が残る可能性は、どのような場面で考えられるか
もう少し考えてみたくなりました。

しかしこの問題にふれるには、まず前提として、紙の書籍云々の問題以上に、
情報の価値=値段の問題を整理しておかなければなりません。

このことはまだ未完成の文「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page128.html
「質は量によってしか表現しえないのだろうか」というページで、
これから情報化社会になると言っていながら、これまで私たちは、
情報そのものにたいしては正当な代価をほとんど払ってはいなかったのではないだろうか、という問題を提起しています。

 本の例で見ると、1冊の本の代金を払うとき、私たちは1,000円なり1,500円なりの代金をその情報の代金としてあたりまえのように払っていますが、その定価の内訳を見ると、紙の本を制作するのにかかった紙代、印刷代、製本代、あるいは物流経費などがほとんどをしめており、純粋な著者の情報の価値に相当する部分の代金は、定価のごく僅かな部分しか払っていないことに気付く。
 そればかりか、多くの原稿料は、著者の労働量(原稿用紙何枚分)だけの対価しか表現されていない場合がほとんどで、その情報そのものの質を表現したような対価が払われることはごく一部の著名な作家の場合に限られているのが実情です。

 これまでは、情報の代金を問題にする場合は、ほとんどなんらかのハードをともなって伝達されることが必然であったために、そのハードの製作、運搬の経費が払われていれば問題は解決されているような錯覚に陥っていたのではないかとも思われる。

 それが、デジタルコンテンツやネット技術の普及で、伝達のためのハードのコストに依存しない純粋情報が出回る時代になり、ハード不要の情報のどこに価格づけがされるべきかを問われたとき、その実態の多くからは代価を請求する必要が無くなってしまった。

 それでも、今日、情報の希少性や著作権などから代価を主張する声はまだまだ強まるばかりであり、情報化社会、知識産業の隆盛などの時代の流れからは逆行する意見のように見えるかもしれませんが、結論から言うと、ここにはさらに情報そのものの本質、つまり、「情報とは本来タダ(無料)である」という私の前提が証明される構造があります。

本来、人類の知恵や知識は共有されることを必然的性格として持っており、そこに代価を請求する根拠が生れるのは、まず第一に、その情報を独占したり秘匿したりすることによってのみ発生する性格のものであると考えます。

そして第二には、純粋に情報の価値を問うとするならば、それは情報の受け手や、情報の使い道によって、同じ情報でもまったく価値がその場、その人ごとに異なるという現実があり、だとすれば情報の代価は、売り手の側よりも買い手の側がそれぞれの価値観に応じて表明するべき性格のものであるのではないかということです。


 このことは、以前から大道芸人の世界の人たちから矛盾を指摘されていたことでもあります。
 彼らいわく、「劇場で商売をしている人たちは詐欺師だ」と。

 われわれ大道芸人は、自分の芸をお客さんに見せてから、その芸の評価にふさわしいお金をそれぞれのお客さんの事情に応じていただく。

 それにくらべて劇場で商売をしている人たちは、自分の芸を見せる前に勝手な自分の方の都合で決めた金額をお客さんから取ってしまう。

 あとでお客が後悔しようが、どう思おうが一切彼らは責任はとらない。

 これはどう考えても詐欺師と同じではないかと。



 本の世界、情報の世界も、これと同じ矛盾をかかえているのではないでしょうか。


 本こそ、読んではじめてその価値がわかる商品なのに、読む前にその対価を、機械的にたと
えタイトル倒しのつまらない本であっても、製造・流通経費だけ払えばよいのだろうか、と。

 どんなに面白くても、劇場のように拍手歓声で著者に伝えるわけでもない。ただひたすら、自
分と同じような評価をした(あるいは同じように騙された)人が何人いたかでしか評価されない。


 最悪の場合でも、どうしようもなくつまらない本を買ってしまったら、印刷製本流通経費分は
払うが、著者の印税分くらいは返すくらいの良心が欲しい。

 そこで私は思うのです。

 一律の著作料と製造・流通コストしかほとんど価値に反映されない現在の出版システムに対
して、もし、読者が自分の感動に応じて著者なりその本を評価するシステムがあっらとしたら。

 技術の進歩した現代では、それほそ難しいことではないのでしょうか。

 とりあえず思いつくシステムは以下のようなものです。


 私が今日、書店(または古本屋や図書館でもOK)で1,800円の本を買ってきて夜読んだら、近年にない感動を覚えたとします。この著者は今までまったく知らなかったが、まだ数冊しか本を出していないらしい。でも、こんなすばらしい著者には是非頑張ってほしいと思う。

 そう思ったら私は電話機をとり(パソコンでもよい)、著作権管理センターのようなところにまず電話をし、自分の識別暗証コードを入力したら、本のISBNコードをそのままダイヤルする。
 そして、次に自分が感動した分だけ電話機の♯(シャープ)キーを
 ダダダダダダダダダッと感情のまま押す。

 すると、自分の銀行口座から♯の回数だけ10円かける何回で計算された金額が、著者の口座、もしくは著作権管理センターに引き落とされる。

 コードの入力方法で、著者への評価と出版社への評価を分けて行なうこともできる。

 ♯1回が10円。

 うんと感動したら、*10を押してから♯を押すと、1回が100円になる。

 *100を押したら、1回で1,000円。

 「なんてすばらしい本なんだ」と思ったら、読んでいる途中でも、読了後でも、ずっと後になってその良さに気づいたときでも、電話機(またはパソコン)に向かって

♯をダダダダダダダダダ!

 このシステムがあれば、新刊書に限らず、古本を購入した場合でも、図書館から借りた本の場合でも、さらには友人から借りた本の場合であっても、正しく読者の評価は著者に伝えることができる。もちろん払いたくない人間は払わなくても良い。



 優れた著者に対しては、芸人を育てるがごとく、投げ銭的にこのようなシステムを活用するのが正しいのではないでしょうか。

 それぞれの評価をしてくれた読者は、匿名希望でない限り著者の側からも知ることが出来る。大金を振り込んでくれた読者にはお礼のメールが届いたり、お得意さんの読者には年末にお歳暮なんかが届いちゃったりする。


 さらに、新刊書に限ってであるが逆の評価も可能だと思う。

 せっかく期待して買って読んだのに、あまりにもひどい内容だった場合の「金返せコール」。
 当然全額返すなんてことはできませんが、印刷製本、流通などにかかわりのない純粋な著作権、印税相当分の金額を、同様のシステムで返還請求ができるシステムが考えられます。
 (ただしこれは、悪用を避けることが難しいかもしれません。)

 原稿の枚数だけで稼いでいる作家や、学生につまらない教科書を売りつけてばかりいる大学教授などが、たちまち生活が苦しくなってしまいます。

 こうしたシステムができれば、それこそミリオンセラーを出した作家ばかりでなく、ほんとうに良い仕事をした作家や研究者がそれなりに評価されるすばらしい出版産業が発展すると思います。また、再販制度でゆれる専門書の類もこうしたシステムでこそ補完されていくのではないでしょうか。

 ね。どう思いますか?

 

 この意味で書籍は、売り手がつける生産コストのみを反映した定価とは別に、読者が価値を評価するシステム(投げ銭システムのようなもの)がこれから求められるのではないか、というようなことをここで書いてみました。



この問題については、先のホームぺージでいつかもう少し詳しく整理したいと思っていますが、作り手から発信される情報の値段そのものは、本来タダであるということが、どんどん立証される時代になってきているのではないかと思います。

そこで、では紙の本の固有の価値は、いったいどこに求められるのかというのが
「情報パッケージとしての本」という次回に書く話です。