~ここから新しい世界に出会える~正林堂

渋川市の書店「正林堂」からお店の企画、本の紹介、地域の情報などを気ままに発信します。

「致命的な病」トクヴィル

イメージ 1

苦手な政治談議を続けるにあたって、最近、再評価されているトクヴィルという遥か昔(1805年パリ生まれ)の人の本が相次いで刊行されているものを紹介させてもらいます。
 150年くらい昔に書かれた本でありながら、あまりにも現代と未来の姿を鋭く言い当てているのですが、従来の社会科学者たちの間に埋もれてこれまで注目されることのなかったひとです。

 選挙は大事だと思いながらも、政治家の顔を見るたびに、コイツらにまかせていったい何が変わるというのだと思わざるをえない日々。
 でも、投票しないということは、「私はお上の言うことには一切文句を言いません」という意思表示に等しいのだ、などと若い子を昔はけしかけていたものだが、
どうも毎度繰り返される「今回こそ国政を左右する大事な選挙」との声に、私はついていけない。

以下のトクヴィルの言葉に、少し静かに耳をかたむけてみたい。




 主権者は、すべての個人を次々にその強力な掌中におさめ、その思うままに彼らをつくり上げると、次には、その手を社会全体に広げる。
主権者は社会の全面を、複雑・微細・画一的な法規の網の目で蔽い、それを突破して衆に抜きん出ることはどんなに独創的な精神と不屈の魂の持ち主にもできないだろう。
主権者は人間の意志を打ち砕きはしないが、それを柔弱従順にし、そして導く。
行動を強制することは稀であるが、行動することを不断に妨げる。
何ものも破壊はしないが、生成するのを妨げる。
決して弾圧はしないが、人を妨害し圧迫し無気力にし、意欲を失わせ、感覚を麻痺させる。

そしてついには、どの国民も、臆病で働き好きな動物の群れにすぎなくされ、政府がその牧人となるのだ。

                      (DA,供324-325)
  (注:ここでいう主権者とは為政者のこと)

 
 
 政治の領域に自由を導入しながら、同時に行政の領域において専制を拡大した民主的な国民は、奇々怪々なる事態にいたる。

彼らは、単純な常識があれば足りる些細な問題を処理しなければならない場合には、市民はその能力をもたないとみなす。ところが、国政の問題となると、彼らはその市民に巨大な特典を与えるのである。
こうして彼らは主権者の玩具になるかと思うとその主人公となり、国王以上のものとなるかと思うと次には人間以下の存在となる。

さまざまな選挙制度をことごとく試しても、自分たちに適するものは見出せない・・・・・。

実際、自治の習慣を完全に放棄した人びとが、彼らを指導すべき人物を正しく選ぶのに成功しうるとは考えにくい。そして、奴隷の国民の投票から、活動的で賢明な、自由を原理とする政府が生まれうるといっても、決して信じられないであろう。

頭が共和政的で、他のすべての部分が超君主政的な政体は、私たちの束の間の怪物と思われてきた。為政者の堕落と被治者の愚かさとが、やがてその政体を破滅に導くであろう。

国民は、自らの代表者として自らとに飽きて、もっと自由な制度を創り出すか、やがて一人の主人の足元にまたも身を横たえるか、どちらかであろう。

                       (DA,供326-327)


民主的な国民においては、すべての市民は自立してはいるが、弱い存在である。
独力ではほとんど何ごともなしえず、また、そのなかのだれ一人として、同胞に対して自分に協力するよう強いることはできないだろう。
互いに自由に助け合うことを学ばなければ、市民は無力に陥る。

民主的な国に生きる人々に、政治的な目的のもとに団結する権利も意欲もないとすれば、彼らの自立は大きな危険をおかすことになるであろうが、自らの富と知識を長く保持することはできよう。

ところが、日常生活において相互に共同する習慣を身につけていないとすれば、文明それ自体が危機に瀕するであろう。国民の一人ひとりが孤立して大事をなす力を失って、共同してその大事をなす能力をいまだ得ていないならば、その国民は遠からず野蛮状態に立ち返るであろう。

                      (DA,供326-327)


選挙戦に水をさすつもりはありませんが、
タイトルに掲げた「致命的な病」とは、
「選挙の間だけの自由」ということです。


宇野重規トクヴィル平等と不平等の理論家』講談社メチエ 2007/06
中田 豊 『二十一世紀を見抜いた男』現代思潮社 2007/02
小山勉 『トクヴィル 民主主義の三つの学校』ちくま学芸文庫 2006/04
トクヴィルアメリカのデモクラシー』 第1巻上・下 岩波文庫 2005
トクヴィルアメリカの民主政治』上・中・下 講談社学術文庫