~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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山伏と修験道・補足(1)

先日の内山節さんの講演会は、とてもよく修験道の世界が整理されて概括できるすばらしいものでしたが、私の「かみつけの国 本のテーマ館」の様々なページとの関連もある内容なので、講演で触れられなかった内容を中心に、修験道の世界の問題の広がりをちょっと整理してみたいと思います。


まず、修験道が衰退させられたひとつの要因に薬事法の度重なる改定で、山伏などが扱う漢方などの薬草を売ることが出来なくなっていった経緯の話が内山さんの講演でありましたが、山伏たちにとって薬草類とともにもうひとつ主要な収入源となる技術の代表が鉱物資源の管理があります。

 金・銀・銅・水銀、さらに翡翠など様々な鉱物資源の多くは、
山伏によって発見、開発され、その後の維持・管理もされていた。


【蛇足】
大仏建立などの国家事業で膨大な銅が国中から調達され、様々な職人や労働力が動員される様子については
箒木蓬生『国銅』上・下(新潮社)
に生き生きと描かれています。
ある坑夫が都までつれて来られて、造成され拡張されていく都の様子を横目で見ながら大仏開眼の壮大な式典の日までのうちに
仲間の命をひとり、ひとりと失っていく。
都へ連れてこられるときの様子は、生野銀山から足尾銅山へうまい話につられてつれられてくる近代の坑夫の姿(立松和平『恩寵の谷』ともダブル。
しかし、労働力を確実に確保するための行きの道中よりも、役目を終えた帰りの道中は故郷へ帰れる喜びもつかのま、危険に満ちた命がけの旅でもあった。
主人公が字を覚えて美しい詩の響きに目覚める姿を軸に
大仏建立のプロセスの詳細を知ることができる
箒木蓬生が書き上げた異色の作品で哀しくも美しい物語です。
おすすめ。



 山伏の格好のなかに、弁慶の絵姿などで見られる背負っている道具箱に金槌などの道具類が無造作に入っているのを目にすることがある。
いったいなんのための道具なのか?
それらは信仰のために必要なものとはとても思えない。
かといって闘いの道具類とも思えない。

あれは薬草採取や鉱物探索のための道具類であるという。
芝居の勧進帳の話にみられるように、大仏や大寺院の建立資金を全国に勧進してまわる仕事を山伏は請け負っていたが、そうれは資金集めの役割とともに、各地から大仏建立のために必要な膨大な金、銅、水銀の調達も大事な仕事であった。

そもそも、修験道の本拠地、吉野山から山上ガ岳にかけての山並みを金峯山(きんぷせん)というが、
その地下には黄金が埋まっているという。
修験道とは「黄金信仰」である。
本尊の金剛蔵王権現は黄金の守護神である。

以下は、前田良一著『役行者』の記述です。

山伏は山中でいったい何をしていたというのか。
コロンブスは金峯山の黄金を探すために、大西洋を西に航海した。
カリブ海の島を日本であると信じ血眼になって黄金を探している。

大海人皇子は吉野で挙兵いsて天武天皇に即位した。古代最大の内乱である壬申の乱の勃発である。
このとき、吉野には小角が山伏軍団を率いて君臨していた。
果たして、大海人と小角の邂逅はあったのか。

関連ページ
「山伏と修験道
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page168.html


黄金や水銀の材料である朱砂などの貴重で高価な資源は、
一般人の立ち入りを制限するために
血の池などの呼び名を使ったり、鬼が出るなどの噂の広げたりして
山伏だけがその地域の管理を占有していたと思われる。

とすると、
何度も吉野に通った、天武天皇をはじめ天皇がなぜ吉野に
あるいは熊野に通った理由はいったいなんなのか。
単純に信仰心だけからのものといえるのだろうか?

推測するに、それはまず第一に
権力の資金源としての黄金の調達だったのではないだろうか。
そして第二に
当時、水銀は、不老長寿の秘薬として貴重なものであり、
ミイラの体内から大量の水銀がみつかったりしていることなどからも
中国の神仙思想にまでたどる系譜を感じる。
もちろん、訪れるそれそれの人ごとに、様々な異なる病の悩みもあったであろうと思われる。水銀に限らない薬草の知識が求められていたことは想像に難くない。


山伏がこの鉱物資源の調達管理の主役であったことと、もうひとつ、そうした調達で各地の山を旅する立場から必然的に、産出した鉱物の運搬、全国の物流の業務に直結していたことがあげられる。

この話をするために、前提としておさえておきたいことがひとつあります。
それは江戸時代までの物流の主流は
海運ルートがその中心であり、しかもそのルートは、
最も安全な瀬戸内海ルートが第一であり、
その次が日本海ルート。
紀伊半島から先の太平洋岸のルートは黒潮に乗ってしまうと一気に沖にながされてしまい、もっとも危険の高いコースで、太平洋の東回りのルートが開拓されるのは、
江戸時代後期、河村瑞賢の登場まで待たなければならなかった。

この地理条件を前提にすれば
役行者が伊豆に流されたというのも地理関係からすれば偶然の場所ではないことがわかる。

日本民族の起源の論議騎馬民族説とともに南方の海洋民族説がありますが、
その海洋民族の流れ着く先は、紀伊半島まで。
歴史を遡るほど、物流の中心は、陸路よりも
海路や川の方が中心であった。
そのメイン通路が瀬戸内海から紀伊半島に至る航路。

日本列島全体の物流をみても
牛馬に載せて陸路をたどるよりも、日本海へ抜けて船で下関までたどり
瀬戸内海を経て都に運ぶ方が便利せあった。
その物流管理の技術と情報を握っていたのも山伏であったといえるのではないだろうか。

各地で産出した大量の重い鉱物資源をどうやって都まで運ぶのか、
産出と同時に考えておかなければならない大事な課題。
その辺に山伏がどうして法螺貝を持っているのかのヒントもあるといえないだろうか。

長くなったので
マタギと忍びとのかかわりについては次回。