~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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マタギの巻物・通行手形と修験道

マタギの持つ巻物は修験道が発行したものなのだろうか?
修験道の話の続きで、「かみつけの国 本のテーマ館」のなかから
以下の話を転載します。


マタギが持っていたり、東北地方の各地見つかっている巻物は精粗様々であり、巻物の体裁をとるもの、一枚紙に書いたもの、ああるいは帳面式に綴ったものなど、形式も様々で、そのすべてをひとくくりに決め付けることはできないでしょうが、大きくわけて二つに分けられるといいます。

 一つは狩人の祖として万次磐三郎、あるいは万三郎なる人物を説き、この人弓矢の名人として日光権現を助けまいらせ、全国の山々谷々どこでも狩りをしてよろしい、また獣肉をたべてもけがれないという許しを得たと説くものである。民俗学の方では通例この系統に「日光派文書」の名を与えている。
 いま一つの由来は、狩人の祖となった者は安田尊であって、昔弘法大師高野山を開くとき協力した功により、野獣の霊魂を救う引導の法をさずけられたという内容をもつ。これを通例「高野派文書」と呼ぶことにしている。




この「日光派文書」が、群馬との関わりでも、とても興味深い内容を持っています。

 その内容の大体をいうと、昔万字万三郎という人があり、もともと祖先は皇室より出たが流浪して下野日光山の麓に住み、鳥獣を射て生計を立てていた。そこで弓の名手といわれ空飛ぶ鳥ものがさぬ人と名が高かったが、ある時、山中で白い鹿を見て三日三夜これを追ったところ、何度矢を射ても当たらず、ついに日光社前まで追って行った。ところがたちまち白鹿は失せて日光大権現の姿となり、「万三郎よ、汝をここまで連れてきたのは自分である。自分は年来赤城山の神と争っているが勝つことができない。我が姿は蛇、赤城は大百足であるので尋常では勝てぬ。汝は天下の弓の上手であるから、我を助けて赤城を射よ。」と仰せられる。万三郎が謹んで命に従うことを申し上げると、白木の弓と白羽の矢二本下さって、いついつつぎの合戦があると告げられた。

 さてその日ともなれば大風雷電して天もくらくなる。そのなかに赤城明神の姿が現われるのを、万三郎かの弓と矢で射て見事に明神の両眼に射当てた。このため赤城明神は戦に負けて引き返す。日光権現大いに喜び給い、万三郎に日本国中山々岳々どこで狩りをして差支えないと許可を与えられた。

           千葉徳爾 著 『狩猟伝承』 法政大学出版(1975/02) 

 さらに面白く不思議なのは、この「日光派文書」が、日光地方ではまったく見つかっておらず、会津から北の、日光山の信仰とあまりかかわりのない地方で、しかも狩人の由来記としてだけ通用した点です。

 マタギにとって、この文書は、生涯見ることも無いお守りだけの役割しかもたない例も多くありますが、多くの原本の製作推定時期が元禄から享保という幕藩体制の完成期に当たっており、一所不在の狩猟集団の通行手形の役割ももっていたのではないかと思われます。

 この通行手形の役割をもつ巻物の発行元が、おそらく修験道の山伏であったと思われます。


以上、「かみつけの国 本のテーマ館」
マタギに学ぶ自然生活」より
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page136.html


 ここから、マタギに限らず、非定住民の幕府方に頼らない非公式の通行管理に修験道の権威がなんらかのかたちで関与していたことが想像されるかと思います。