~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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圧倒的アドバンテージ・土地所有

前回、非定住民が差別されたり、貧困におちいる原因として、
食っていくための源資としての、田畑や山林などの土地所有から隔絶されていることを根本原因として指摘しました。

またちょっと話がそれますが、
このことは、国や民族を問わず、人類にとって大事な視点なので
差別以前の問題として少し補足しておきます。


前に、江戸期以前の日本の山林の管理には
「所有」の概念が無かったということを書いたことがあります。
日本人にとって山林は、天賦自然のものであって
個人が所有する筋合いのものではなかったと。

山から木を伐る。
鳥獣の狩猟をする。
山菜や木の実を採る。
薪などの燃料を取ってくる。

これらの権利は、
特定の個人が山を所有することで保証されるものではなく、
それぞれの用途で山に入る者それぞれに
その山の「利用権」として与えられるものであった。

ひとつの山が
狩猟をする者には、狩猟の権利を持って山に入ることが許され、
別の者には、木を伐採する権利のみ認められるといったように。

また、上野村など、ある地域では
「山に上がる」という言葉があり、
なんらかの事業の失敗や災害などで借財を抱えたり、財産を失ったりしたとき、その者を村公認で「山に上げる」という。

そのものは村から味噌などをわけてもらって
山に建てた仮小屋にしばらくにこもる。
その山にこもっている間は、誰の山の木を伐っても
どこの山に入って山菜を採っても許される。
かつて山にはそれだけ豊かな恵みがあったということで
今では実現できない話であるけれども
私有の概念が入った山林であっても、
公共の財産として利用するすがたがよく見えて面白い。

ここに、自然そのものが
人間によって所有管理される筋合いのものではなく、
自然それ自身の生命の恩恵に人間が、生物全体があやかっているという
人間中心ではなく、自然中心の社会観がある。

これは、なにも日本独特のものではなく
地球上の人口全体から見れば、この考えに基づいている社会の方が多く、
むしろ世界史的には、ヨーロッパ狩猟民族だけが
個人による「所有」概念を自然に、世界各地に
拡大していった特殊性があるように見えます。

そればかりか今では、
この土地そものの本来の公共的性格は、
資本主義国内であっても、
環境保護のために必要とされる自然や
公共性の高い都市部の土地などは、
個人の私的所有の対象ではなく
国によって管理されるべき公共のものであるという考えが多くなっている。

それは市街地の商店街などにおいても
個々の店を所有している事業者それぞれは、私的利益を追求する個人の集まりにすぎないが、
商店街や地域という視点でみると、
単純な個人事業者の集まりではなく、地域という
公共性を支えあった事業者の集まりで、
私的利益の追求だけでなく、町の行事に参加したり、
それぞれの事業が地域の経済循環を支える大事な構成部分であることから、その土地の事業権として、事業の意志とは別に
それぞれが極めて高い「公共性」を付与されているともいえる。

日本の土地バブルを生んだ中曽根政権時代を境にして
投機の対象としての土地、
所有していれば、間違いなく値は上がっていくものとしての土地
という考えは、
この半世紀ほどの間に急速に世界に広まってしまいました。

しかし、ようやく
世界各地で、環境保護の視点から
都市部の景観保護や計画的街づくりなどの視点から
土地というものがそもそも「公共の財産」であり
個人によって所有されたり売買されたり
あるいは投機の対象にされるような筋合いのものではないということが
公然と主張される時代になってきました。

公共性の高いものは
所有権によってではなく
利用権によって保証されるべきであると。

ちょっと前の時代なら、こんな話をしただけで
それは共産主義思想だなんていわれたものですが、
もうイデオロギーを問わずそうしたことが語られる時代になってきています。

こうした
極端に進化した「私的所有」の考えに対して
「公共性」という「目に見えない社会資本」の概念が
今、世界で少しずつ浸透しだしています。


ところが、このことが、歴史を振り返ってみると
定住民と非定住民との間で
日本の歴史のなかでは
土地を所有しない非定住民のなかでも、
その多くは差別されながらも
「公共性」や目に見えない社会資本にあやかる環境が、
現代の孤立したホームレスや失業者に比べたら
まだ豊かなものがあったともいえるのではないかと感じてしまうのです。

まだまだ、あっちこちに話が飛びそうだな。
許してね。