~ここから新しい世界に出会える~正林堂

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破格の強さを持った一向一揆の特殊性

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不連続シリーズ「近代化でくくれない人々」 約・第34回あたり?

間隔があいたり、話が飛んだり、自分でも前の話を忘れたり、
ほんとに心もとない不連続シリーズ。

いよいよ「百姓ノ持タル国」の話に入るのですが、
またまた、その前に、
その前提として、一口に一揆といっても
一揆のなかでも極めて特殊な性格を持っていた一向一揆の問題を
諸々の一揆と同列に語ってよいのだろうかという疑問があります。

一揆そのものが、戦国時代の土一揆一向一揆など
戦争と飢餓の間で、村同士の争いまで含めて乱立していた時代と、
江戸時代に入ってから、初期の越訴(おっそ)中心の一揆から、後期のかなり組織だった圧力の一形態にまでなったものを一緒に論ずるのは、どうも誤解を生みやすい気がししてなりません。

そうした有象無象の一揆のなかでも、一向一揆というものがいかに特殊な性格を持っていたか、いくつかポイントをあげるおきたいと思います。

第一にそれは、一揆とはいいながらも、一向衆、浄土真宗本願寺という継続的な組織基板を持っていたことです。
突発的な一揆もたくさんあったには違いないのですが、個別に発生している一揆も、その多くは本願寺などからの指示のもとにあったり、蜂起を避けるようにとの手紙が送られていた事例や具体的な指示が出されている場合が多い。
たしかにそれは、「統率されていた」とはとても言い難いものですが、それでも他の大半の一揆がその都度、その場の首謀者の合議で進められていたものとは、大きく性格が異なっていたものだと思われます。

第二には、寺内町(じないちょう・じないまち)という、城下町、門前町とも異なる、商工業を含めた共同体を砦の内側に組織していた独立コミュニティーのようなものを組織基板として持っていたことがあげられます。
これは一向一揆の破格の強さの秘密でもあるのですが、他の一揆と異なり、石山、山科、長島などの寺内町のなかには、組織の中枢に、経済力のある商人や、鉄砲職人だけではなく戦闘に様々な応用のきく様々な技術者集団をかかえて登用していたことが特筆されます。
これは、史上例の無いといってもよいほど徹底した平等思想である親鸞の浄土思想によるところが多く、これまで賤民と差別されてきた・非農業民や技術者たちが、対等に扱われ生業の場が保証された環境にあったことが、とても大きいと思います。

このことが、戦国大名たちの多くが農民と武士を中心とした兵力を城側の統制だけで管理していたのとは異なる、領主主導ではない、様々な技術者たちを中心とした幅広い階層を中軸に組織した武装集団として機能していたことにつながっていたと思われます。

これらの特徴があげられるかと思うのですが、一向一揆はどうしても念仏を一心に唱える狂信的武装集団としての面ばかり強調されがちなのが、私にはなかなか話をすすめにくく感じさせていました。

こうした前提のもとに、次回はいよいよ
信長や秀吉がその経済基盤の力強さを真似て盗んだとも思われる
寺内町」のことについて書いて見たいと思います。