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甲波宿禰神社の謎 その3  大島史郎さんの講演から

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甲波宿禰神社が川の信仰であることに、私はどうも違和感を感じていたのですが、
その疑問を解決してくれる貴重な機会に運よく恵まれました。

11月1日(日)に渋川市立図書館の郷土史講座で、大島史郎さんが「渋川郷と渋川氏」と題して、
甲波宿禰神社にも触れながら、渋川郷というものが従来言われていた有馬氏の勢力範囲とは
一定度独立して存在していたという根拠をいくつかにわたって話してくれたのです。


渋川市の地名の元となった渋川氏について、私は市が刊行した『まんが渋川の歴史』で、
昔、渋川氏を名乗る豪族だか武士団がこの地で活躍した時期があったという程度の知識しかありませんでした。

それ以外の歴史の記述をみると、大半はこの周辺(群馬町・吉岡以北)は有馬氏が広い勢力範囲をもっておさめていたといった表現がされており、現在の渋川市はその有馬氏の勢力下にあったものとずっと考えていました。

ところが、大島先生の今回の講演によって、製鉄遺跡や牧や刈場など馬にかかわる地名のまとまりが、
従来の有馬氏の勢力内とは区別されたかたちで現渋川市の中心から北部にかけて集中して存在していることを知ったのです。

平沢川周辺が質の良い上田であったこと、洪水や氾濫の被害を受けながらも、利根川と合流する直前の吾妻川流域の河原はかなり広かったことなどを説明してくれました。

吾妻川の今の水量は、八ツ場ダム問題ではじめて知ったのですが、 上流に沢山ある水力発電所が水を取ってしまい ,現在の水量は昔よりはるかに少ない水量になってしまっているそうです。

とすると、吾妻川の川幅の最も狭い杢ヶ関跡周辺から下流利根川合流地点、白井までのデルタ地帯こそが、肥沃な地域としての条件をもっていたと十分考えられるのです。

そこを拠点としていた渋川氏の実像はまだよくは見えてきませんが、こうした考えに則ると、
なんらかのひとつの勢力圏がここにあったとみることは決して難しいことではありません。

こうしたことを知ると、氾濫なども繰り返すデルタ地帯の上流にあたる場所に川の信仰としての甲波宿禰神社を祀ることが違和感なく受け入れられるようにも思えてきます。


大島先生の話は、とても内容密度の濃いもので、うっかりしてしまうと大事なポイントも聞き逃してしまいそうなものでしたが、有馬氏中心の渋川の郷土観を大きく見直させるとても重要な講演であったと思います。

学術研究調査レベルから、地元に広く知れ渡る知識にこうした内容が変わるよう、今回のような講演会を
これからも是非、重ねていただきたいと思いました。


渋川市立図書館の皆さん、よろしくお願い致します。